8月28日の太宰治。
1945年(昭和20年)8月28日。
太宰治 36歳。
疎開先の故郷金木から手紙を送る。
疎開先から弟子と師匠に送る手紙
今日は、太宰が疎開先の故郷・金木町から3人に送った書簡を紹介します。
太宰は、1945年(昭和20年)7月31日に金木町へ疎開。翌1946年(昭和21年)11月12日まで、約1年3ヶ月半滞在しました。
太宰が、金木町に疎開した15日後の、8月15日正午。戦争終結の詔が放送(玉音放送)され、第二次世界大戦(1939~1945)は終戦を迎えました。今日紹介するのは、そんな時期に書かれた書簡です。
■疎開中の太宰が仕事部屋として使用した部屋 2018年、著者撮影。
1通目は、1945年(昭和20年)8月28日付で、弟子・菊田義孝に宛てて書かれたハガキです。
青森県金木町 津島文治方より
宮城県遠田郡元涌谷小塚
菊田義孝宛
拝復 御元気で農耕の御様子、何よりです。私も今月はじめにこちらへ来て、午前読書、午後農耕というのんきな生活をしています。これから世の中はどうなるかなどあまり思いつめず、とにかく農耕、それから昔の名文にしたしむ事、それだけ心がけていると必ず偉人になれると思います。もう死ぬ事はないのだから、気永になさい。 不乙。
■菊田義孝
2通目は、同日付で、弟子・小山清に宛てて書かれたハガキです。
この時、小山は、三鷹の太宰宅で、太宰の留守を守っていました。そのため、ハガキの宛先は、三鷹の自宅の住所になっています。
青森県金木町 津島文治方より
東京都下三鷹町下連雀一一三 津島方
小山清宛
拝啓 その後どうしていますか。こちらは、たいしてかわりはありません。
徴用もとけて、これからどんな仕事を、と思いあまったら、筑摩の古田さんに相談してごらん。この葉書を持って行ってもよい。小山の人物は私が保証するのだから。
筑摩はいいところですから、きっと、働き甲斐があると思います。でも、むりにはすすめません。思いあまった時には、です。御自愛をいのる。 不尽。
■小山清
3通目、最後の手紙は、 師匠・井伏鱒二に宛てて書かれたものです。
この手紙が出された日付は不詳ですが、その内容から、先に紹介した2通とほぼ同時期に書かれたものと思われます。
青森県金木町 津島文治方より
広島県深安郡加茂村
井伏鱒二宛謹啓 けさ畑で草むしりをしていたら、姪が「井伏先生から」と言って絵葉書を持って来ました。畑で拝読して、すぐ鍬をかついで家へ帰り、ゲエトルをつけたままでこの手紙を書いています。このごろは、一日に二、三時間、畑に出て働いているようなふりをして、神妙な帰農者みたいにしているのです。御教訓にしたがい、努めて沈黙し、人の話をただにこにこして拝聴しています。心境澄むも濁るも、てんで、そんな心境なんてものは無い、という現状でございます。まあ一年くらい、ぼんやりしていようと思っています。親戚の印刷屋に原稿用紙をたのんで置きましたが、それが出来て来たら、長編小説をゆっくり書いてみるつもりです。でもまあ、故郷があってよかったと思っています。東京でまごついていたら、イヤな、末代までの不名誉の仕事など引受けなければならないかも知れませんから。
福山もヤラレタ様子を新聞で知り、御案じ申して居りましたが、御一家御無事の由なによりでございます。御子供様の御丈夫だけが、幸福です。
お酒、タバコ、そちらは如何ですか。こちらは、日本酒一升五十円、ウイスキイ、サントリイ級一本百円ならば、どうにか手にはいるようです。タバコも、まあ、どうやらというところです。この一箇月間、毎晩兄の晩酌の相手をしています。兄も少し老いました。
私がこちらへまいりました当座は、青森がヤラレ、それに艦載機が金木へもバクダンを四、五発落して、焼けた家もあり死傷者も出て、たいへんな騒ぎでした。私の家の屋根が目標になったのだと、うらんでいた人もあったそうです。先日、中村貞次郎君の蟹田の家へあそびに行きましたが、ここもバクダンのお見舞いで、中村君の家の戸障子はほとんど全部こわされてひどい有様でした。金木でも蟹田でも、みんな野原や山に小屋を作って、そこに避難という事になったのですが、こんどはその小屋の後始末に一苦労というわけです。丸山定夫氏が広島で、れいの原子バクダンの犠牲になったようですね。本当に私どもの身がわりになってくれたようなものです。原子バクダン出現の一週間ほど前に私によこした手紙が、つい先日金木につきましたが。蟲の知らせというものでしょうか。妙に遺書みたいなお手紙でした。縞の単衣があるから、あれをお前にやる、などと書いていました。惜しい友人を失いました。
申しおくれましたが、甲府罹災の折には、かずかずのお品を奥様からいただき、女房が感激して居りました。どうか奥様によろしく山々御伝言おねがい申し上げます。またその折には、白ズボンまでいただき、私はあれをはいて蟹田の中村君を訪問いたしました。
申し上げたい事がたくさんあったような気がいたします。でも、もう、死ぬ事も当分ないようですし、あわてず、ゆっくり次々とおたより申し上げる事に致します。
終りに一つ、当地方の実話を御紹介いたします。
「いくさにも負けたし、バイショウ金などもたくさんとられるだろうし。」
「イヤ、そんな事は何も心配ない。無条件降伏ではないか。よくもしかし、無条件というところまでこぎつけたものだ。」
大まじめに答えたというその人は、隣村の農業会長とか何とか立派な身分のお方だそうです。神州不滅なり矣。
これから秋になりますと、お互い田舎は、ゆたかになって来るのではないでしょうか。津軽は凶作の危機を、この十日間ばかりの上天気でどうやら切り抜け平年作の見とおしがついたようです。
それではどうかくれぐれもお大事に、またおたより致します。
■太宰と井伏鱒二
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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