記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月9日

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11月9日の太宰治

  1945年(昭和20年)11月9日。
 太宰治 36歳。

 「パンドラの匣」四十一回から六十四回までを村上辰雄宛送付。

「大へん疲れてしまいました」

 1945年(昭和21年)7月31日から、三鷹甲府を経て、故郷・金木町へ疎開していた太宰は、同年9月20日頃に、宮城県仙台市にある新聞社・河北新報(かほくしんぽう)社の出版局次長・村上辰雄の依頼を受け、初の日刊新聞への連載小説パンドラの匣に挑みます。太宰は、村上へ終戦後の希望」を書きたいと話し、新聞連載を承諾しました。

 村上の訪問を受けた約1週間後の同年9月30日、太宰は作者の言葉とともに、パンドラの匣20回分、80枚近くを村上に宛てて送付します。
 さらに、同年10月18日には、21回から40回分までを村上に宛てて送付するという、速いペースでパンドラの匣を書き進めていきます。

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 同年11月9日、太宰は、41回から64回分までの原稿を村上に宛てて送付しましたが、その際、添え書きに「大へん疲れてしまいました。この六十四回で完結させていたゞきました。あとは、どうしても続きません。新年から、また他のひとにはじめていただくと、順序がよろしくないでしょうか」とありました。
 太宰の訴えに対し、64回での完結を了承した村上に、同年11月21日付で、太宰は感謝の意を伝えるとともに、苦しい感情を吐露する、次の手紙を書きました。

  青森県金木町
   津島文治方より
  仙台市東三番町
   河北新報社出版局 村上辰雄宛

 拝復、おたより拝誦し、小説六十四回でおしまいにした事、御了承下さってありがとう存じます、どうしてもあれは、あれ以上つづかないのです。こんど、いつかお逢いした時に、私の苦心談なるものをお話いたしましょう、あれでもう精一ぱいのところでした。画伯には、あなたからどうかよろしく御鳳声ねがいます、「竹さんの顔」は、竹さんが本当は凄い美人なんだというのを少年が白状するあたり、あのへんで精一ぱい美しい顔をおかきになったら、効果があると思っていたのです、そのように御伝(おつたえ)下さいまし、
 また、稿料もさっそく御手配下さってありがとうございました、たしかに全部受取りました、受領証を同封いたしましたから、御手数でおそれいりますが、会計課へお廻し下さいまし、
 なお、出版の件、実は他からも申込みがあるのですが、ザックバランに申し上げますと、初版一万五千にしていただけないでしょうか、思い切ってやってごらんなさい、大丈夫、売切れます、長篇は短篇集より、ずっと売れるのが出版常識のようです、
 ただ私の気がかりは、せっかく、売れるものを部数を少くしては何もならないというだけです、
 再販などの準備もしていただいて、仙台の出版もたのもしいという印象を一般作家に与えるようにするといいと思いますが、如何でしょう、
 まあ一つふんぱつ、するんですね、
 御返事ねがいます、装丁その他は異存ございません、挿絵をいれる事など大賛成です、以上、要談、
 以下、近況、
 青森支局の人たちと大鰐(おおわに)温泉で実にたのしく飲みました、すべて私が誘惑したのですから、あの人たちを叱らないで下さい、本社の門馬(?)さんとかが見えて、何だか支局の人たちがあわてていましたが、彼等は私の小説を激励の意味で一緒に飲んでいたのですから、そこはよろしくお取りなし願います、十二月にでもなったら、忘年会をしましょうか、村上さんおいでになったら愉快ですね、では部数の件、よろしく、敬具
  村上学兄     太宰治
  いま東京の出版社の部数ずいぶんたくさんなのです、

 当初、太宰と村上との間で、「三百枚書下ろしだよ」「いや、二百枚というところかな」という会話が交わされていました。64回分の原稿は、原稿用紙200枚を少し超えますが、太宰はもう少し長く書くつもりでいたようです。

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 太宰は、村上に手紙を出した2日後の同年10月23日、師匠・井伏鱒二に宛てた手紙の中で、次のように書いています。

新聞小説はじめてみたら、思いのほか面白く無く、百二十回の約束でしたが、六十回でやめるつもりです。雑誌からの注文もいろいろありますが、とても応じ切れず、二つ三つ書いただけです。いつの世もジャーナリズムの軽薄さには呆れます。ドイツといえばドイツ、アメリカといえばアメリカ、何が何やら。

 「百二十回の約束でしたが」というのは、太宰の誇張表現ですが、応じ切れない程、仕事の依頼も来るようになり、今の自分は仕事を選べる状況にあるということを、井伏に伝えたかったのでしょうか。
 しかし、わずか1ヶ月半前の井伏宛の手紙に、「(新聞小説は)たのしみながら書いて行こうと思っています。どんな事を書いてもかまわないそうですから、気が楽です」と書いていた太宰が、師匠に対して苦しい報告をせざるを得ない状況になっていました。

 太宰は、パンドラの匣終戦後の希望」を書きたいと意気込んだものの、やがて、人間、社会の本質が戦前と何も変わってはいないことを思い知らされ、軍国主義をそのまま裏返しただけの民主主義や、便乗思想が幅を利かせる「現実」への失望感を強めていったのでした。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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