記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月6日

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11月6日の太宰治

  1938年(昭和13年)11月6日。
 太宰治 29歳。

 午後四時頃から、石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立会いで、石原美知子の叔母二人を招き、結婚披露の宴が催された。

太宰と美知子の結婚披露宴

  1938年(昭和13年)、天下茶屋に滞在中の太宰は、9月18日に師匠・井伏鱒二の付き添いで石原美知子とお見合いをし、10月24日には井伏に宛てて、小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」と書いた「誓約書」を送付しました。

 そして、同年10月31日。太宰は再び、井伏に宛てて、次のような手紙を書きました。

  山梨県南都留郡河口村御坂峠上
   天下茶屋より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 拝啓
 昨日は、大急ぎで、粗末の走り書きのお礼状したため、非礼おゆるし下さい。いろいろご都合ございましょうから、少しでも早いほうが、と思い、日がきまって、すぐ斎藤様宅から飛び出し近所の郵便局に駆けつけ、速達したためたので、ございました。
 十一月六日に、何卒、お願い申しあげます。かための式は、午後四時頃からとのことにて、井伏様まえもって甲府着のお時間お知らせ下さいましたら、私間違いなくお迎えにまいります。私は、六日には、朝から、斎藤様宅へ出むいて、何かと用事するつもりでございます。井伏様も、さきに一旦、斎藤様宅へおいで下され、それから石原氏宅へ、おいで下さいまし。
 ほんとうに、こんどは、私も固い決意をもって居ります。必ずえらくなって、お情に立派におむくいできるよう、一生、努力いたします。
 式に必要のお金は、私、準備して置きますゆえ、その点は、御心配下さいませぬよう。
 ほんとうに、おかげさまでございました。井伏様からいただいたお嫁として、一生大事にいたします。きっと、よい夫婦になります。
 六日には、お逢いして、これからの私たちの結婚の段取りについて、私たち考えていること、いろいろお耳にいれたく存じて居ります。
 きょうは、不取敢(とりあえず)、山ほど謝意の、ほんの一端まで。
          修 治 再拝

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井伏鱒二

 そして、結婚披露宴の当日、11月6日。この時の様子について、太宰の妻・津島美知子は著書回想の太宰治で、次のように回想しています。

 十一月六日、私の叔母ふたりを招き、ささやかな婚約披露の宴が私の実家で催された。東京からは井伏先生がわざわざ臨席してくださり、文学や画の好きな義兄Yが洋酒を持参して祝ってくれた。床の間に朱塗りの角樽が一対並んでいた。結納は太宰から二十円受けて半金返した。太宰はこれが結納の慣例ということを知らず、十円返してもらえることを知って大変喜んだ。

 太宰と美知子の結婚式は、翌年1939年(昭和14年)1月8日、杉並区清水町24番地の井伏宅で挙行されました。 

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■太宰と津島美知子の結婚写真

 【了】

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【参考文献】
太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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