記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】小照

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今週のエッセイ

◆『小照(しょうしょう)
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1942年(昭和17年)6月末から7月初め頃までに脱稿。
 『小照(しょうしょう)』は、1942年(昭和17年)7月13日発行の改造社版「新日本文學全集第十四巻・坪田譲治集」の「月報」の第十六号に発表された。この月報には、ほかに「井伏鱒二氏について」(真木英二郎)が掲載された。

小照(しょうしょう)

 いつも自分のところへ遊びに来ている人が、自分の知らぬまに、自分を批評しているような小論文を書いているのを、偶然に雑誌あるいは新聞で見つけた時には、実に、案外な気がするものである。その論の、当、不当にかかわらず、なんだか水臭い、裏切りに似たものをさえ感ずるのは、私だけであろうか。こんど改造社から、井伏さんの作品集が出版せられるそうだが、それに就いて何か書け、と改造社のM君に言われて、私は、たいへん困ったのである。私の家は、東京府下の三鷹町の、ずいぶんわかりにくい謂わば絶域に在るので、わざわざ此の家にまで訪れて来るのは、よほどの苦労であろうと思われる。事実、M君は、たいへんの苦労をして私の家を捜し当て、汗を拭きながら、「何か一つ、井伏さんに就いて。」と言い給うのである。私は恐縮し、かつは窮した。私は今まで、井伏さんには、とてもお世話になっている。いまさら、井伏さんに就いて、書きにくいのである。前にいちど、井伏さんの事を書いて、そのとき、井伏さんに「もう書くなよ」と言われ、私も「もう書きません」と約束をした事があったのだ。どうも、書きにくい。けれどもM君は、遠路わざわざやって来られて、私に書けと言うのである。私は、弱い男らしい。断り切れなかったのである。M君の濶達な人徳も、私に断る事を不可能にさせた一因らしいのである。とにかく私は、ひき受けたのである。書かなければなるまい。井伏さん、御海容下さい。
 何を書けばいいのか。十数年前、私が東京に出て来て、すぐに井伏さんのお宅へ行った。その時、井伏さんは痩せて、こわい顔をしていた。眼が、たいへん大きかった。だんだん太った。けれども、あの、こわさは、底にある。
 こんな事を書いていながら、私は、私の記述の下手さ加減、でたらめに、われながら、うんざりする。たかだか、三枚か四枚で、井伏さんの素描など、不器用な私には出来るわけがないのだ。
「このごろ僕は、人をあんまり追いつめないようにしているのだ。逃げ口を一つ、作ってやるようにしなければーー、」れいの、眼をパチパチさせながら、おっしゃった事がある。このごろ、井伏さんは、ひとの痛がる箇所にあまりさわらないようにしているようだ。わかり過ぎて来たから、かえって、さわらないようにしているのかも知れない。そんな井伏さんを見て、井伏さんを甘いなと、なめたら、悔いる事があるかも知れない。
 まず今回は、これだけにして、おゆるしあれ。どうも書きにくい。これは、下手な文章であった。いずれ、また。

 

"井伏さんは悪人です"

 今回のエッセイ『小照(しょうしょう)』の冒頭「いつも自分のところへ遊びに来ている人が、自分の知らぬまに、自分を批評しているような小論文を書いているのを、偶然に雑誌あるいは新聞で見つけた時には、実に、案外な気がするものである。その論の、当、不当にかかわらず、なんだか水臭い、裏切りに似たものをさえ感ずるのは、私だけであろうか。」
 この部分を読んだ時、私の脳裏には、エッセイが書かれた6年後、1948年(昭和23年)6月13日未明に太宰が愛人・山崎富栄玉川上水で心中した際に残した、「井伏さんは悪人です」と書かれた遺書を思い浮かべました。「井伏さん」とは、太宰の師匠・井伏鱒二のことです。

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太宰治の遺書 左隅に「井伏さんは悪人です」とある。

 1923年(大正12年)、太宰が青森中学1年生の時に、はじめて井伏の『幽閉』(のちに山椒魚として改稿)に出会い、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と興奮し、弘前高校時代には、同人誌「細胞文芸」への寄稿依頼もしています。
 1930年(昭和5年)5月中旬、東京帝国大学に進学して上京後、井伏との初対面を果たし、以降、長らく井伏に師事しました。
 井伏と太宰の実家・津島家との関係も次第に緊密になり、太宰への仕送りは井伏を通して渡されるようになりました。井伏と太宰の長兄・津島文治が共に早稲田大学の出身という縁もありました。
 そんな太宰が、なぜ人生の最期のタイミングで、「井伏さんは悪人です」と書かなければいけなかったのでしょうか。

 太宰の死の前年にあたる1947年(昭和22年)7月下旬、疎開していた井伏が東京に移住、杉並区清水町24番地の自宅に戻ってきます。この時の太宰は、斜陽執筆の最中でした。
 移住直後の井伏家の家計を心配した太宰は、恩返しのつもりで、自身が全九巻の解説を引き受けることを条件に、井伏鱒二選集」の編纂を筑摩書房の社長・古田晁(ふるたあきら)に提案します。
 選集に収録する作品を選ぶために、井伏の作品を読み返している過程で、太宰は、短篇集「禁札」の中に、『薬屋の雛女房(ひなにょうぼう)という、見たことのないタイトルの短篇を発見しました。

 競技場の正面には、大きな日章旗がたててあった。その横に、「健康なる精神は健康体に宿る」と大書した大きな紙を、戸板に貼って木の幹に立てかけてあった。患者たちは幾つもの組にわかれて競技場の周囲に列をつくり、その各組の右翼にはそれぞれ一本ずつの旗が立ててあった。雛女房と奥さんの応援したい奥さんの御主人は、開襟の半袖シャツを着て白いズボンをはき、「麻薬団応援旗」と書いた旗を立てている組の最右翼にいた。そして(ひさし)のない白い運動帽をかぶっていた。

 1938年(昭和13年)、「婦人公論」十月号に掲載された短篇ですが、太宰は天下茶屋に滞在してい時期だったため知りませんでした。
 『薬屋の雛女房』は、薬屋の若妻を主人公にしつつ、船橋時代の太宰と内縁の妻・小山初代をモデルに描かれているように思えます。太宰の事ともとれるような「奥さんの御主人」が、薬に苦労している様子が面白おかしく書かれており、先程の引用は、精神病院での運動会の様子です。短距離走では、ある組では7人の走者がてんでばらばら、とんでもない方向へ走っていったとも語られています。これを読んだ太宰は「これは僕のことだ」と感じ、激怒しました。

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船橋時代太宰と初代

 1947年(昭和22年)は、3月27日に愛人・山崎富栄と出逢ったり、11月12日に愛人・太田静子が出産したりということがありました。太宰は、妻・津島美知子と結婚する際、井伏に宛てて、「ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」という誓約書を送付していた後ろめたさから、井伏と少しづつ距離を置くようになっていましたが、『薬屋の雛女房』を見つけたことが、井伏と太宰の仲を決定的なものとしました。
 太宰の葬儀の際、井伏は葬儀副委員長を務め、葬儀委員長を務めたのは豊島与志雄でした。太宰は、豊島与志雄を一番尊敬していた、と言っていますが、本来なら、長らく師事していた井伏の名を挙げるのが筋のように思われます。しかし、ここであえて豊島の名前を挙げることからも、太宰の晩年は、井伏との距離が離れていったことが分かります。

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豊島与志雄(とよしまよしお)(1890~1955) 日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。明治大学文学部教授も勤めた。太宰は、晩年に豊島を最も尊敬し、愛人・山崎富栄を伴って、度々豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わした。井伏は富栄を嫌ったが、豊島は富栄を認め、優しく接したことも理由の1つと考えられる。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

 太宰が「井伏さんは悪人です」という遺書を残したことについて、井伏寄りの文壇人やマスコミは、太宰が薬を飲んで朦朧として書いたや、本心とは反対のことを書いたなどと井伏を擁護し、悪人説を否定しました。

 文壇ではその論調が長く続いていましたが、1975年(昭和50年)頃から、これに異を唱え、「それは、太宰の本心だ」と説いたのが、その半生を敬愛する作家・太宰の研究に捧げた長篠康一郎ながしのこういちろうでした。しかし、長篠の言動をよく思わない勢力が、長篠に対して必要以上の嫌がらせを行いました。長篠の家庭、家族だけではなく、職場にまでも嫌がらせが及んだといいます。

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長篠康一郎(ながしのこういちろう)(1926~2007)

 のちに、長篠に近い考え方を表明したのが、太宰研究家・川崎和啓でした。川崎は、1991年(平成3年)に「師弟の(わかれ ー太宰治の井伏鱒二悪人説ー」という論文を「近代文学史論」に発表し、井伏鱒二悪人説を肯定しました。
 また、川崎の論文の9年後、2000年(平成12年)に作家・猪瀬直樹が小説ピカレスク 太宰治伝を執筆。ここでも、長篠の唱えた「井伏さんは悪人です」ということが肯定されています。
 文壇の大御所である井伏に反旗を翻す内容のものを書くと、文壇では生きていけないという現実があり、井伏鱒二悪人説を肯定する研究者や学者が現われはじめたのは、井伏の亡くなった1993年(平成5年)以降でした。

 2001年(平成13年)、青森県近代文学館から発行された資料集第二輯「太宰治・晩年の執筆メモ」からも、太宰の心境を汲み取ることができます。
 メモの内容は、1947年(昭和22年)、1948年(昭和23年)版の文庫手帳に書かれたもので、ほとんどが作品に関する創作メモですが、実名で井伏を批判している箇所も見られます。

<1948年(昭和23年)の執筆メモ>
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【下段】
井伏鱒二 ヤメロ という、
足をひっぱるという、
「家庭の幸福」
ひとのうしろで、
どさくさまぎれに
ポイントを
かせいでいる、
卑怯、
なぜ、やめろというのか、
「愛?」私はそいつ
にだまされて来た
のだ、

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【上段】
人間は人間を
(4字消し)愛す
る事は出来ぬ、
利用するだけ、
思えば、井伏さん
という人は、人に
おんぶされて
ばかり生きて
来た、孤独
のようでいて、
このひとほど、

【下段】
「仲間」がいないと
生きておれないひと
はない、
井伏の悪口を〓う
ひとは無い、バケ
モノだ、
阿保みたいな
顔をして、作品
をごまかし(手を
抜いて)誰にも
憎まれず、

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【上段】
人の陰口は
ついても、めんと
向かっては、何も
〓わず、わせだ
をのろいながらも
わせだをほめ、
愛校心、
ケッペキもくそも
ありやしない
最も、いやしい

【下段】
政治家である。
ちゃんとしろ。
(すぐに人に向〓〓〓
グチを言う。〓や
しいと思ったら、
黙って、つらい
仕事をはじめ
よ、)
私はお前を捨て
る。お前たちは、

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【上段】
強い。(他のくだらぬものをほめ
たり)どだい
私の文学が
わからぬ、わが
ままものみたい
に見えるだけ
だろう、聖書
は屁のようなも
のだという、
実生活の
駈引きだけ

【下段】
生きている。
イヤシイ。
私は、お前たちに
負けるかも知れ
ぬ。しかし、私は、
ひとりだ。「仲間」を
作らない。お前
は、「仲間」を作
る。太宰は
気違いになっ
たか、などという
仲間を、

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【上段】
ヤキモチ焼き、
悪人、
イヤな事を言う
ようだが、あなた
は、私に、世話
したようにお
っしゃっている
ようだけど、
正確に話し
ましょう、

【下段】
かつて、私は、
あなたに気に
いられるように
行動したが、
少しもうれしく
なかった。

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■太宰と井伏 1940年(昭和15年)4月30日、群馬県、四万温泉にて。撮影:伊馬春部

 【了】

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【参考文献】
・太宰文学研究会 編『探求 太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(1976年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
青森県立図書館/青森近代文学館 編『資料集第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ』(2013年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・橘田茂樹『太宰治と天下茶屋 ー太宰治が遺したもの』(山梨ふるさと文庫、2019年)
加藤典洋完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』(講談社文芸文庫、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【井伏から見た戦後の太宰】

太宰治39年の生涯を辿る。
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