4月30日の太宰治。
1940年(昭和15年)4月30日。
太宰治 30歳。
井伏鱒二、伊馬春部、および、井伏鱒二宅に出入りしていた文学青年で早稲田大学文学部学生であった石川隆士(国文学科)、則藤大蔵(仏蘭西文学科)、佐藤
太宰、四万 温泉:湯元 四萬舘 に遊ぶ
太宰は、師匠の井伏鱒二、友人の伊馬春部、井伏宅に出入りしていた文学青年らと群馬県の
■太宰と井伏、同行した早稲田の学生・石川と佐藤 撮影:伊馬
伊馬の案内で、伊馬のPCL映画時代からのシナリオ作家仲間・阪田英一が所有する湯元
■「湯元 四萬舘」は、現在も群馬県吾妻郡中之条町四万3838で営業しています。
太宰一行は、散歩したり、伊馬のカメラに収まったり、将棋を差したり、温泉プールで泳いだりしました。また、四万館の1キロほど下流で、生まれて初めて釣り竿を取り、
その夜は、夜中まで歓談し、痛飲したそうです。
■太宰と井伏
伊馬は、この日のことを、エッセイ集『桜桃の記』に書いているので、引用して紹介します。
昭和十五年という年は、太宰がよく旅に出た年である。私が一しょだったのは、まず四万温泉だが、上野出立が四月三十日、私のかけつけ方が遅くて、太宰は井伏さんと共に待ちかねていた。「や、来た来た……」太宰の声音がいまでもよみがえる。中村地平、小山祐士は突発事があって不参、早稲田の学生の石川、佐藤、則藤の三君が同行した。中之条からは満員の木炭バスだったが、則藤君の気分がわるくなった。きけば十二指腸潰瘍だという。そんな病気なら来なければいいのにと、太宰は私に眉をしかめてみせたが、則藤君はその日そのまま東京に引き返したように思う。写真にのこっていないからだ。
記憶にあるのは、その夜、またもや酒の話だが、四万館じゅうの麦酒を飲み干してしまったこと(新聞連載を執筆中の井伏さんをよそに、二人だけで深夜の台所に忍びこんだりした思い出はなつかしい)と、翌日、バスに乗る前、サントリイのポケット瓶を四本も見つけて狂喜したことである。すでに時代は物資不足を告げつつあったころであった。その折のスナップの一枚が、今度の『文学アルバム・太宰治』の41頁におさめられているが、浴槽でのそれは大いに物議をかもした。つまり今のことばでいえば太宰のヌード写真なのであって、それを『葛原勾当 日記』と共に受取った彼の葉書によれば、家中を火のついたように飛び廻ったとある。立川乗越し事件の葉書と共に、遺っておれば珍品なのだが、失せてしまったのは残念というの他はない。
『文学アルバム・太宰治』に掲載されて「大いに物議をかもした」という「太宰のヌード写真」が、こちら。
この写真を伊馬から受け取った太宰は、返信のハガキに「家中を火のついたように飛び廻った」と書いて送ったそうですが、残念ながら、このハガキは残っていません。
写真で太宰が入浴しているのが、この「亀の湯」。
亀の湯は、四萬舘でも一番昔からある大浴場で、一番景色の良いところにあるそうです。太宰が入浴した時とは形は変わっているそうですが、今でも残っています。
ちなみに、1947年(昭和22年)1月15日付の伊馬宛のハガキに、太宰は次のように書いています。
いま、きょうの仕事を一段落させて、(午後三時)あのウナギ屋で一ぱい飲んで、ウナギ屋でこのハガキしたためています。御写真(こんな冗談を言えるようになったのは、とにかくいいことですね)けさ到着したのです。途中の関所にひっかかっていたのです。御写真には、思わず眼をそむけました。それから、ウナギ屋も興奮していました。
「あのウナギ屋」とは、太宰の行きつけ、三鷹の若松屋のことです。
写真を撮られた7年後には、なんとか「冗談を言えるように」なっていたようです。
伊馬のエッセイに登場した『葛原勾当日記』(博文館、1916年(大正4年)11月25日付発行)ですが、この日記の話を伊馬から聞いた太宰は、本を貸してくれるように頼み、送られてきた仮名文字活字日誌の『葛原勾当日記』を土台にして、小説『盲人独笑』を執筆しました。
【了】
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【参考文献】
・伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『生誕105年 太宰治展―語りかける言葉―』(神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「湯元 四萬舘」(http://www.shimakan.com/)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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