記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月27日

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12月27日の太宰治

  1939年(昭和14年)12月27日。
 太宰治 30歳。

 十二月十五日、十二月二十七日、十二月二十八日付で、高田英之助に葉書を書く。

高田英之助の祝報を聞いて

 1939年(昭和14年)、太宰が12月15日、27日、28日付で、高田英之助に宛てて書いたハガキを紹介します。

 高田英之助は、太宰が妻・津島美知子と結婚する際に尽力しました。
 高田は、太宰の師匠・井伏鱒二と同じ広島の出身で、高田の兄・高田類三(嘉助)が井伏と福山誠之館中学時代の同級生で、親友だったことから、井伏と親交がありました。
 1937年(昭和12年)に慶応大学文学部国文科を卒業した高田は、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)の記者になり、甲府支局へ配属になった際、井伏を介して太宰と知り合います。太宰、伊馬春部と並んで、「井伏門の三羽烏(さんばがらす)と呼ばれていました。
 高田は甲府の交通網を担っている御嶽自動車の社長・斎藤文二郎の娘・斎藤須美子と婚約していたため、井伏はその伝手を頼って、高田に太宰の結婚相手探しを依頼したのでした。

 最初に紹介するのは、1939年(昭和14年)12月15日付で書かれたハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 拝啓 けさはうれしいおたよりをいただきました。おめでとうございます。今日までのおふたりの精神的の御苦闘も、これから神様のごほうびに依り、充分に報いられることを、信じます。
 どうか枝葉末節は気になさらず、強い御家庭を創って下さい、ほんとうに男児の仕事は三十歳以後です。充分の御自身を以て、ゆっくりと経営なさるよう。
  待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花
  白と聞きつつ 花は紅なり
  不取敢(とりあえず) 衷心からの祝意
  奥さまには くれぐれもよろしく。
   春服の色 教えてよ 揚雲雀(

あげひばり)

 「うれしいおたより」とは、高田と須美子の同居の知らせのことです。
 高田は甲府連隊付きの記者だったため、昼夜問わずの激務で体を壊し、病気療養のために、単身で伊豆大島に渡り、療養生活を送っていました。太宰は高田夫妻を心配し、励まし、2人で生活するよう説得する書簡を数多く送っています。
 別居生活が続いた高田夫妻ですが、ようやく同居生活をはじめることができるようになり、太宰も心から「おめでとうございます。」と、祝意を表したハガキを送りました。

 

 続いて紹介するのは、先ほどのハガキから2週間弱が経ってから書かれた、同年12月27日付のハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 英之助君
 御心境如何(いかが)です。もう、落ち着きましたか。おひまの折、ぶらりとこちらへも、おいでなさいませんか。一夕、語りましょう。僕のほうから、押しかけて行ってもいいのですが、御新居を驚かすようで、気がひけるのです。拙宅は、吉祥寺駅南口(公園側)に下車して、そこから、緑のバスなんでもかまわず乗って、ムサシノ幼稚園前で降りて、そこから同じ様な小さい新築の家が九軒あります。その西南端であります。お逢いしたし。すみ子様に、くれぐれもよろしく。

 「もう、落ち着きましたか。」と様子を伺いながら、久々の面会を乞う内容です。太宰は、高田の三鷹来訪を望んでいます。

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■太宰自筆、自宅への案内図 1945年(昭和20年)2月13日付で、「文藝」の編集兼発行者だった野田宇太郎に宛てて書かれたもの。

 

 最後に紹介するのは、同年12月28日付に書かれたハガキ。なんと、2日続けてのハガキ投函です。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 前略 ただいま、井伏さんから、おハガキがまいり、元日おひるごろから井伏さんのお宅で、みんな会うようにしたら、ということでしたので、なるべくそういたしませぬか?
 元日に、みち子がそちらへ参りたいなど申して居りますが、御都合は、どうでしょうか。アパートへ到る略図も、ちょっと書いて下されたら幸いと存じます。
 こちらへおいで下されても、もちろん大歓迎であります。御都合お知らせ下さい。     不一。

 前日は三鷹への来訪を望んでいた太宰ですが、元日の井伏宅での再会や、高田のアパートへ出向くことの提案もはじめました。
 太宰からの度重なる誘いですが、2人は会うことが出来たのでしょうか。

 翌1940年2月3日付、高田宛のハガキで、太宰は「先日は、ほんとうによくおいで下さいました。」と書いているので、最終的には、高田が三鷹の太宰宅を訪問したようです。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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