記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月13日

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12月13日の太宰治

  1940年(昭和15年)12月13日。
 太宰治 31歳。

 十二月二日、十二月十二日、十二月十八日付で、山岸外史に葉書を送る。

太宰、山岸に「君は一番強いよ。」

 今日は、1940年(昭和15年)12月2日、12日、18日付で、太宰が、檀一雄と並んで「三馬鹿」と呼ばれていた親友・山岸外史に宛てて書いた3通のハガキを紹介します。

 1通目は、1940年(昭和15年)12月2日付のハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 お葉書を、いただきました。お酒を呑むと、私も、たいてい後で、わるかったかな? いけなかったかな?と考えます。お酒のむ人の通癖のようでもあります。そこがまた、味なところなのかも知れません。とにかく、私に就いては御心配なさるな。私のほうこそ、すみませんでしたと言いたいのです。私に、お金がウンとあれば、兄とウント遊びたい。よく遊び、よく学びたい。このごろお仕事どうですか。私は、毎日、追われています。十二月十日以後は、休むつもりです。ナグサメル会は、ごもっとものようにも考えられます。一切、白紙還元して「忘年会」は如何。忘年(、、)の意味、ようやくわかったような気がします。六日午後五時、阿佐ヶ谷駅、北口通り「ピノチオ」にて、文章を語る会合ある由、私も出てみるつもりです。兄とお逢いできるといいと思います

  「文学を語る会合」とは、第一回阿佐ヶ谷会のこと。阿佐ヶ谷会は、中央線沿線・阿佐ヶ谷界隈に住む文士の交流の場として、戦前から戦後にかけて、30年以上も続けられた会です。この会の世話役は、田端修一郎中村地平小田嶽夫の3人で、会費は2円でした。
 太宰は「兄とお逢いできるといいと思います」と書いていますが、この会への山岸の出席はありませんでした。

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■1940年(昭和15年)12月2日付山岸外史宛ハガキ

 

 2通目は、先ほどのハガキの10日後に書かれた、1940年(昭和15年)12月12日付のハガキです。

東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 拝復
 先夜は、やられました。日暮里で一やすみ、巣鴨で下車して一やすみ、亀井は吐き、私は眠り、共に又はげまし合って、やっと新宿から電車に乗り、こんどは私は電車の窓から吐き、亀井は少しずつ正気づき、私は正気を失い、とうとう亀井に背負われるような形で三鷹の家へ送りとどけられました。君は一ばん強いよ。食事は、当日でいいでしょう。
 みなに案内を出しました。

  「先夜は、やられました」とありますが、山岸はこの夜のことを、太宰治おぼえがきで回想しているので、引用して紹介します。

  昭和十五年の十二月。太宰と亀井勝一郎君とぼくの三人で、ひとつ、芸者というものをあげて飲んでみようか、という相談がまとまったことがある。まるで学生そっくりな不粋な相談なのだが、とにかく、各自がそれぞれに自分の働いた金で酒でも飲めれば、女房も養えるようになっているのだから、ここで自己慰安会を開催して、最大限に飲んでみようということになった。太宰がいいだしたのか、ぼくがいいだしたのかまったく忘れているが、亀井君にも相談をかけた。むろん、亀井君も大賛成で、会場を新橋の烏森に決定した。自分で自分を指名して御苦労さんでしたと挨拶する謝恩会にしようということになった。赤坂でも新橋でも柳橋でもなく、烏森であったところが、たぶん味噌ということなのだろうが、お稲荷さんかなにかの近所の待合に集合した。五人ばかり芸者を呼んで大いに飲んだのである。そのなかの雀奴(すずめやっこ)というのが愛嬌があっていいということになって、太宰もぼくも亀井君も、ばかなことをいいながら大変に飲んだのである。

 

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■太宰と亀井勝一郎 太宰と亀井は、太宰の処女短篇集晩年出版記念会で初対面し、太宰が三鷹に転居した1939年(昭和14年)から本格的な交際が始まりました。蔵書をほとんど持たなかった太宰は、近所に住む亀井の世話になりました。1940年(昭和15年)夏、撮影。

 

 それだけのことだが、そのときだけはさすがの太宰もかなり酩酊したらしかった。その帰途ぼくだけ駒込駅で下車したのだったと思うが、それから亀井君と太宰とは吉祥寺までの国電で、そうとう難行したらしいのである。こんなハガキが残っている。

「先夜はやられました。日暮里で一やすみ、巣鴨で下車して一やすみ。亀井は吐き、私は眠り、共に又はげましあって、やっと新宿から電車に乗り、こんどは私は電車の窓から吐き、亀井は少し正気づき、私は正気を失い、とうとう亀井に背負われるような形で三鷹の家へ送りとどけられました。君は一番強いよ」

 さすがに太宰は、描写が巧いと思った。二人が交互に助けあっているところがよく表現されている。「君は一番強いよ。」は例のお世辞であるが、太宰の酒にもこんな夜はあったようである。

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■1940年(昭和15年)12月12日付山岸外史宛ハガキ

 

 最後は、さらに6日後に書かれた、1940年(昭和15年)12月18日付のハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛 

 拝啓
 一昨日は、失礼いたしました。まずまず盛会と思って下さい。二、三日中に、テレホンの約束しましたのに、急に身辺雑用が騒然となり、破約の形になりそうです。どうか、ワカッて(、、、、)下さい。考えてみると、これからは料亭も一年中で最も、多忙の時で、我々でかけても労多くして功少いとも思いますが如何。興ざめのハガキになりましたが、御了解、御海容下さい。もっとも私も、いやな道ではなし、ひょっとテレホンするかも知れません。
   その程度にて、     万々

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■山岸外史

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『太宰治おぼえがき』(審美社、1963年)
・『太宰治全集 13 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
近畿大学日本文化研究所 編『太宰治 はがき抄 山岸外史にあてて』(翰林書房、2006年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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