記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月14日

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12月14日の太宰治

  1946年(昭和21年)12月14日。
 太宰治 37歳。

 夜、亀井勝一郎とともに招かれて、練馬区豊玉にあった高原紀一の下宿二階八畳間で、府立第五中学校出身者中心の二十歳前後の文学青年グループと逢った。

「太宰さんの文学はきらい」

 1946年(昭和21年)12月14日、夜。太宰は、亀井勝一郎とともに招かれて、練馬区豊玉にあった高原紀一東京産業大学商学部在籍)の下宿二階の八畳間で、三島由紀夫東京帝国大学法学部在籍)、野原一夫(新潮社勤務)、原田柳喜慶応義塾大学在籍)、(いで)英利(第二早稲田高等学院在籍)、矢代静一(同前)、井坂隆一(同前)、中村稔(第一高等学校在籍)、相沢諒駒澤大学予科在籍)、清水一男(府立第五中学校在籍)など、府立第五中学校出身者が中心で、二十歳前後の文学青年グループと会いました。府立第五中学校時代に「開拓」という雑誌を編集していたグループが主でした。
 当時、森鷗外に傾倒していた三島は、酒を飲まずに鷗外論を展開し、これに太宰はまともに答えず、一座が白けたといいます。
 三島は、自伝的作品私の遍歴時代でこの日のことを回想しているので、引用して紹介します。

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三島由紀夫(1925~1970) 小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家、皇国主義者。本名:平岡公威(きみたけ)。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家。代表作に仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海などがある。

 太宰治氏とのつかのまの出会いも、記録しておかねばならぬ出来事にちがいない。
 私は戦時中の校友ほど熱烈ではなかったにしろ、戦後も、幾人かの文学的友人を持った。
「『人間』に小説を書いた三島君」
 というのが、当時の私の肩書きであった。そういう肩書きで、ボヘミアンの一人になるのも容易なことだったが、臆病な私にはそれもできなかった。少年時代師事していた川路柳虹氏の令息川路明氏は、いま、松尾バレエ団を牛耳っているが、当時は向こう気のつよい、衒気いっぱいな少年詩人であったし、いまの社会党の麻生良方氏は、眉目秀麗な不良少年で、「黒薔薇」という詩集の著者であったし、劇作家の矢代静一氏は、太宰治に対する青年の狂熱を最初に私に伝えた一人であったし、そのほか、豊満な三十女の詩人など、いろいろふしぎな人物がいたが、すべてに戦時中のような夢想の優位が失われていたから、現実的にみじめなものはみじめでしかなく、青春といったところで、そんなに活気横溢した空気もなかった。
 太宰治氏は昭和二十一年、すなわち終戦のあくる年の十一月に上京し、さまざまの名短篇集を発表したのち、二十二年の夏から「新潮」に「斜陽」を連載しはじめた。 
 私は以前に、古本屋で「虚構の彷徨」を求め、その三部作や「ダス・ゲマイネ」などを読んでいたが、太宰氏のものを読みはじめるには、私にとって最悪の選択であったかもしれない。それらの自己戯画化は、生来私のもっともきらいなものであったし、作品の裏にちらつく文壇意識や(きゅう)を負って上京した少年の田舎くさい野心のごときものは、私にとって最もやりきれないものであった。
 もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛情の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ地点で、私はあわてて顔をそむけたかもしれないのである。しかし今にいたるまで、私には、都会育ちの人間依怙地な偏見があって、「(きゅう)を負って上京した少年の田舎くさい野心」を思わせるものに少しでも出会うと、鼻をつままずにはいられないのである。これはその後に現われた幾多の、一見都会派らしきハイカラな新進作家の中にも、私がいちはやくかぎつけて閉口した臭気である。
 さて、私の周囲の青年たちの間における太宰治熱はいよいよ高まり「斜陽」の発表当時にいたって、絶頂に達した感があった。そこでますます私は依怙地になって、太宰ぎらいを標榜するようになってしまった。
斜陽」が発表されたときの、世間一般の、また、文壇の興奮は非常なもので、当時はテレビもなく、娯楽一般も乏しい時代であったから、文学的事件に世間の耳目が集中したのであろう。今日ではこのような世間全部の文学的熱狂というようなものは、とても考えられない。読者も当時に比べると、おそろしくクールになったものである。
 私も早速目をとおしたが、第一章でつまずいてしまった。作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などという。「お母さまのお食事のいただき方」などという。これは当然「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっている(、、、、、、)か、あててごらん」
 などという。それがしかも、庭で立ち小便をしているのである!
 ――そんなこんなで、私の太宰文学批判があんまりうるさくなってきたので、友人たちは、私を太宰氏に会わせるのに興味を抱いたらしかった。矢代氏やその友人たちは、すでに太宰氏のところへたびたび出入りしていて、私をつれて行くのは造作もなかった。

 太宰氏を訪ねた季節の記憶も、今は定かではないけれど、「斜陽」の連載がおわったころといえば、秋ではなかったかと思われる。連れて行ってくれた友人はというと、矢代静一氏と、その文学仲間でのちに夭折した原田氏ではなかったかと思うが、それもはっきりしない。
 私は多分、(かすり)の着物に袴というような恰好で、ふだん和服など着たことのない私がそんな恰好をしたのは、十分太宰氏を意識してのことであり、大袈裟にいえば、懐ろに匕首(あいくち)をのんで出かけるテロリスト的心境であった。
 場所はうなぎ屋のようなところの二階らしく、暗い階段を昇って唐紙をあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電灯の下に大ぜいの人が居並んでいた。
 あるいはかなり明るい電灯であったかもしれないのだが、私の記憶の中で、戦後のある時代の「絶望讃美」の空気を思い浮かべると、それはどうしても、多少ささくれ立った畳であり、暗い電灯でなければならないのだ。

 

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■太宰と亀井勝一郎

 

 上座には太宰氏と亀井勝一郎氏が並んですわり、青年たちは、そのまわりから部屋の四周に居流れていた。私は友人の紹介で挨拶をし、すぐ太宰氏の前の席へ請ぜられ盃をもらった。場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそと感動をわかち合い、またすぐ次の啓示を待つというような雰囲気のように感じられた。これには私の悪い先入観もあったろうけれど、ひどく甘ったれた空気が漂っていたことも確かだと思う。一口に「甘ったれた」と言っても、現在の若い者の甘ったれ方とはまたちがい、あの時代特有の、いかにもパセティックな一方、自分たちが時代病を代表しているという自負に充ちた、ほの暗く、抒情的な、……つまり、あまりにも「太宰的な」それであった。
 私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言おうと心に決めていた一言を、いつ言ってしまおうかと隙を窺っていた。それを言わなければ、自分がここへ来た意味もなく、自分の文学上の生き方も、これを限りに見失われるにちがいない。
 しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

 

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三島由紀夫

 

 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
 ――これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる。気まずくなって、そのまま匆々(そうそう)に辞去したせいもあるが、太宰氏の顔は、あの戦後の闇の奥から、急に私の目前に近づいて、またたちまち、闇の中へしりぞいてゆく。その打ちひしがれたような顔、そのキリスト気取りの顔、あらゆる意味で「典型的」であったその顔は、ふたたび、二度と私の前にあらわれずに消えてゆく。
 私もそのころの太宰氏と同年配になった今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の青年から、
「あなたの文学はきらいです」と面と向かって言われた気持ちは察しがつく。私自身も何度かそういう目に会うようになったからである。
 思いがけない場所で、思いがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪め、顔は緊張のために蒼ざめ自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として「あなたの文学はきらいです。 大きらいです」と言うのに会うことがある。こういう文学上の刺客に会うのは文学者の宿命のようなものだ。もちろん私はこんな青年を愛さない。こんな青臭さの全部をゆるさない。私は大人っぽく笑ってすりぬけるか、きこえないふりをするだろう。
 ただ、私と太宰氏のちがいは、ひいては二人の文学のちがいは、私は金輪際、「こうして来てるんだから、好きなんだ」などとは言わないだろうことである。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
三島由紀夫『大陽と鉄・私の遍歴時代』(中公文庫、2020年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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