記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月14日

f:id:shige97:20191205224501j:image

11月14日の太宰治

  1946年(昭和21年)11月14日。
 太宰治 37歳。

 十一月十二日、十数名の人々に見送られ、羅紗(ラシャ)地の紺色に染め直した折襟の兵隊服、兵隊靴、それにゲートルを締めた姿で金木を出発。

太宰、金木から三鷹へ帰京

 太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から、三鷹甲府を経て、故郷・金木町の生家に疎開していました。

 太宰は金木で終戦を迎え、新座敷で執筆を続けながら、1年3ヶ月半を過ごしますが、ついに三鷹への帰京を決意します。

f:id:shige97:20200814065712j:plain
新座敷」 長兄・津島文治が結婚記念に建てた離れ。この建物は、現在 太宰治疎開の家( 旧津島家新座敷 )として公開されています。文壇登場後の太宰の居宅として、唯一現存する邸宅でもあります。

 1946年(昭和21年)11月12日、太宰一家は、十数名の人々に見送られ、羅紗(ラシャ)地の紺色に染め直した折襟の兵隊服、兵隊靴、それにゲートルを締めた姿で金木を出発しました。アヤ(男衆)がリュックサックを背負い、川部駅まで見送ってくれたそうです。

f:id:shige97:20200503091632j:plain
■折襟の兵隊服、兵隊靴にゲートルを締めた太宰

 途中、五所川原旭町で中畑慶吉(なかはたけいきち)宅に立ち寄ったとき、「太宰治」と表書きした茶封筒を渡されます。封筒の中には、「結婚前の不始末や事件にかかわる始末書」などが入っていました。「もう大丈夫だろう」と中畑は言い、太宰は「これは懐かしい。女房には見せられないもんだ」と言ったといいます。

 太宰一家は、青森から上野行きの夜行列車に乗って、翌11月13日の朝に仙台で途中下車。同年7月3日に帰還し、10月1日から河北新報社の編集局取材部に勤務していた、弟子・戸石泰一に逢います。
 11月13日の朝、戸石が出社すると、机の上にざら紙のメモ用紙に走り書きした置手紙がありました。
「今朝仙台に下車した。駅で待っています。すぐおいで下さい。太宰」
 戸石は、喜び勇んで駅に向かう。太宰は駅の入口に立っていました。戸石が出征する直前に上野駅で会って以来、2年9ヶ月振りの再会でした。

f:id:shige97:20200719120144j:image
■戸石泰一

「待ったですか?」
「うん、それほどでもない」
「先生、醜くなったですね。醜貌さらに醜を加えた感がある」
「いいよ、いいよ。お前は相変わらず美男子だよ」
 以前と全く変わらない会話を交わします。駅前の当時2階建て木造だった「仙台ホテル」で家族を休ませ、太宰が持参したどぶろくを2人で飲みました。
 酒がなくなると、乾物屋で手土産の鴨を買い、河北新報社出版局を訪ねます。太宰にパンドラの匣執筆を依頼した村上辰雄は、当時、岩手新報社に出向中(同年12月1日付で岩手新報社取締役)で、宮崎泰二郎だけがいました。
 3人は、まだ昼間にもかかわらず、東一番丁「虎屋横丁」に繰り出し、焼き鳥屋で飲み始めます。太宰はゲートルをつけておらず、軍隊のズボンは膝から下が細くなり、下が紐で結ぶようになっていて、その紐の結び方も、軍靴の紐の結び方も、律儀な感じだったといいます。
 その日は、宮崎が紹介した霊屋下(おたまやした)の旅館「宝来荘」に泊まることになります。河北新報社出版局の他の社員らも加わり、太宰の家族が寝ている隣の部屋で、鴨料理をつつきながら、夜遅くまで酒盃を傾けました。
 何かやれと言われて、歌舞伎の「三人吉三」の声色を真似し始めた戸石に、太宰は笑いながら、「ちっともいいとこないじゃないか」「みっともないから、もう一生やるな。俺の恥になるよ。あ、こら失礼な奴だ。無作法だ。足をそんな恰好して。ちゃんとすわっていろ」と言っていたそうです。

 翌11月14日、太宰は家族に仙台の街を見せると言って、東一番丁に戸石も連れて行ったあと、10時発の急行に乗車して、21時に上野駅へ到着。上野には、三鷹の留守宅を守っていた弟子・小山清が出迎えに来ました。

f:id:shige97:20201016073829j:plain
小山清

 太宰の妻・津島美知子は、「上野から新宿にまわる山手線の車窓から見おろした東京の灯が、谷間のともしびのように、さびしかった」といいます。
 金木からの帰途、仙台への寄り道は、太宰にとって最後の仙台訪問となりました。

 最後に、美知子の回想回想の太宰治からも、金木から三鷹への帰京の様子を紹介します。

 昭和二十一年の十一月半ば、一年四ヵ月の疎開生活をきりあげて、帰京することになった。太宰は京都とか住みたい土地をあげていたが、適当な家を用意してくれる人がいるわけもなく、一旦三鷹の旧宅に戻るほかなかった。
 十一月十一日出発ときまり、疎開中迷惑をかけ通しだったのに皆名残りを惜しんで、駅には十数名の人々が賑やかに見送ってくれた。太宰は例の折襟の兄のお下がりの黒服、私も長女も防空服装で、アヤが大きなリュックサックを負って川部駅まで見送ってくれた。当時は、金木、青森間と青森、上野間と同じくらいの時間がかかった。上野行夜行に乗りこんだが、大変な混み方なので翌朝、仙台に途中下車して、河北新報社の方々のお世話になって一泊し、翌日の夜、上野着、フォームには小山さんが出迎えてくださった。上野駅の明るくきれいなこと、レールの本数の多いことなどに、お上りさんそのまま一驚したが、車窓やフォームから眺める街の灯は、まだ九時前というのに低く暗く谷間の灯のように思われた。

 

f:id:shige97:20200725183241j:plain

 

 太宰は途中吉祥寺の、馴染の酒の店に寄って行くという。そこのおばさんとは私も親しい間柄であったが、その夜は寄り道せずに一刻も早くわが家に落ち着きたかった。けれども太宰に従って一同、店の奥の炬燵に当たらせてもらい、太宰はそこで大分ご機嫌になるまで飲んで、風の吹き荒れる夜更けの井之頭公園を抜けてやっと帰り着いた。生垣のヒバの匂がなつかしかった。
 下連雀の爆撃以後、太宰はこの家のことを「半壊だ」と言う。今まで気にかかるので何度も念を押して聞いたが「半壊だ」としか言わない。ところがいま眼前のわが家は、そして入って見廻したところは、大した変わりようもないように見える。私はなんのことやらわからなくなって「これで半壊ですか」と言った。太宰は知らぬふりをし、小山さんはうす笑いを浮かべて、その表情で――だまされていればいいのですよ、と私に語っていた。

 

f:id:shige97:20200529144306j:plain
三鷹の太宰の住居

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】