記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月26日

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4月26日の太宰治

  1942年(昭和17年)4月26日。
 太宰治 32歳。

 この年の春頃から、吉祥寺駅南口の武蔵野町吉祥寺2737番地の「さかい屋」(古物商)の店の北側の一部にあった「コスモス」に通い始め、以後常用した。太宰治周辺では、「吉祥寺のおばさん」で通用した尾沢好子が、経営していた飲み屋である。

「吉祥寺のおばさん」のコスモス

 吉祥寺のスタンドバー「コスモス」は、戦時中に太宰が常用していた飲み屋です。「コスモス」という名前は、太宰の友人・亀井勝一郎命名しました。
 コスモスは、太宰の年譜や回想記によく登場します。太宰が、太田静子に斜陽を書くための「日記を見たい」と告げたのも、この場所でした。その際の経緯については、1月6日の記事をご覧下さい。

 今日は、コスモスのマダム・尾沢好子が書いた『偉人の風貌』を引用して紹介します。

 たしか、昭和十七年の早春の頃だった。その夜、気焔を上げながら酒を呑んでいた学生の一人が、入口の方を見て小声で云った。
「あ、太宰、治だ」悠然と、二重廻し姿で入って来たその人は、それ迄何回となく人と連れ立って来ているので、文学に関係のある人だとは解っていたが、名前は未だ知らされていなかった。
 太宰治という名は、時々新聞で見て知っていたが、作品は未だ読んでいなかった。
 太宰さんはその後、毎夜のように現れたが殆んど誰かと一緒であった。或る夕暮れのこと、女性も交えた六人連れの青年達と見え、帰ったと思うと四人の青年を、次には三人の青年達で、最後に帰った時は、夜もかなり更けていた。その頃の青年は久留米絣りの羽織と対の袷せの胸元をきちんとし、袴をはいた人が多く、カウンターを前にして横一列に腰をかけ、躰を斜めにして、太宰さんの方をむき、その一言、一言に頷いていた様が、今も目に浮んで来る。太宰さんはその青年達を、励ましたり、叱ったりし、時には、笑わせたりしていた。出版者、評論家、作家の方々も一緒の時もあった。「右大臣実朝」を書いていた頃のこと、誰かに、ユダヤ人実朝と云われたとかで、大変気に病み、浮かぬ日を送っていた。「太宰が守銭奴で、ユダヤ人のように聞えるじゃないか、それじゃ、毎日の生活にも響き、こうして酒も飲めなくなるわけだ。」
 目の前に、当の相手がいるかのように、繰り返しながら酒を飲む日の続いた或る日、ついに堪えかねて、抗議文を送ったとか、先方からの返事には、貴方の発音が、ユダヤ人実朝と聞えたので、つい冗談のつもりで……との詫び言が書いてあったとのこと、以後、あっさりと忘れてしまったようであった。
 昭和十九年の暮れも押しつまり、雪もよいの夜のことだった。小山書店が空襲に会って<パンドラの匣の前名、ヒバリの声>の原稿が、焼けてしまったとの報告を受けたので太宰さんは、浮かぬ顔で酒を呑んでいた。
<ヒバリの声>は、太宰さんが心血をそそいだ作品であり、枚数が足りないなどと云って戻されたりしたが、やっと出版のはこびとなり、ほっとした矢先のことだった。その夜太宰さんは、酔うにつれ、段々話がくどくなり、新聞の文章などをこきおろし始めた。幸い他にお客はなくて、太宰さんと一緒の青年が二人だけだった。はじめ私は気にもしていなかったが太宰さんの攻撃は、新聞から軍に移っていた。青年達はただ、当惑そうな様子で、顔を見合せているだけだった。
「レーテ、レーテと騒ぎ、レーテが天下分け目の戦いだなんて云いながら、今度はルソン島だとか、ミンドロ島だとか、一体軍はどうして降参しないんだ、今降参すればいいんだ、今なら二三人腹を切るだけで治まるんだ」
(まるで、非国民のようなことを)神州不滅を信じていた私は、日本の敗ける筈のないことを主張してやまなかった。
「嫌だねえ、おバさん」眉をしかめ、唇をゆがめた太宰さんの、何時にないその声に威圧を感じ、私はたじろいだ。
「おバさんは、ラジオや新聞と同じことを云うじゃないか、あれは真赤な嘘なんだぞ、今こそはっきり云う、太宰はな、此の頃新聞を見ると、ワアッと、眼を被いたくなるんだよ」あの、華奢な両手で顔を被うのだった。
「真赤な嘘をならべた上、米鬼、英鬼だなんて、それは、裏店の熊公八公の喧嘩のセリフというものだ、相手の心臓をつき、肺腑を抉る言葉をつかいたかったら、賊としたらいいじゃないか」太宰さんは、戸をあける真似をするのだった。
「他の家の戸をこじあけ、宝物や、金品を強奪するいわば盗賊、匪賊、この方が余程溜飲がさがるじゃないか。それは別として太宰はもう我慢できない、是では、直接空襲を受けなくとも、太宰の命は、自然消滅の一路を辿るだろう、だが、太宰は死にたくない、太宰は命乞食なんだ、太宰は命乞食なんだよ」言葉に熱がこもり、声が高くなるので青年達は狼狽し、椅子から立上がり、太宰さんの肩に手をかけそうにしては止め、また腰をおろしたりしていた。
「その話やめにして……若し警官にきかれたら大変……早速憲兵隊に……」もっと何か云おうとする太宰さんを手で制し、私は、店の外を窺うように、耳をすました。
「太宰は何処へ行っても、堂々と意見をのべるよ」力強い太宰さんの言葉に私は、安堵の胸をなでおろしたが、それは束の間のことだった。おりふし、戸をたたく音がすると、太宰さんの顔は蒼白になった。私は、店の戸が閉っているのに気づき、裏口から廻って見ると、お客だった。私が、酒は無くなったからと、お客を云いくるめて、店に戻ると、太宰さんは酔いもさめ果てた面持で声を潜めた。
「だが、その場にのぞんだら、何も云えないんだろうなあ」太宰さんはその時、持ち前のあの気の弱い顔に戻っていた。

 太宰さんと私の間には、戦中、戦後を通じ一貫して繰り返した会話があった。
「太宰は偉いんだよ君、太宰は偉いんだ、解らないか君、太宰は一寸違うんだ、家の女房も、その妹も、太宰の偉さを説明しても、ちょっとも解ってくれないんだ」
「先生は、偉人の風貌がおありですわ」事実私は、二重廻し姿で考えに沈んでいる時の太宰さんに、偉人の(おもかげ)を感じるのだった。
 太宰さんはよく誰かと一緒に見えた折、
「ここのおバさんは太宰に、偉人の風貌があると云うのだ」嬉しそうな笑いを浮かべながら、そう云うのだった。だが、その時の太宰さんは凡そ、偉人の風貌とは逆な、稚気、満満とした感じであった。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 2』(審美社、1962年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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