記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』①
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)12月9日か10日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』①は、1935年(昭和10年)12月14日発行の「東京日日新聞」第二一三二六号の第十三面に「新人の立場(三)」の総題のもと、「もの思う葦(上)」の標題で、「()(まま)という事」「百花繚乱主義」「ソロモン王と賤民(せんみん)」「文章」の4篇が発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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()(まま)という事

 文学のためにわがままをするというのは、いいことだ。社会的には二十円三十円のわがまま、それをさえできず、いま更なんの文学ぞや。

「百花繚乱主義」

 福本和夫、大震災、首相暗殺、そのほか滅茶滅茶のこと、数千。私は、幼少期、青年期に、いわば「見るべからざるもの。」をのみ、この眼で見て、この耳で聞いてしまった。二十七八歳を限度として、それよりわかい青年、すべて、口にいわれぬ、人知れない苦しみをなめているのだ。この身をどこに置くべきか。それさえ自分にわかっておらぬ。
 ここに越ゆべからざる太い、まっ黒な線がある。ジェネレーションが、舞台が、少しずつ廻っている。彼我(ひが)相通ぜぬ厳粛な悲しみ、否、嗚咽さえ、私には感じられるのだ。われらは永い旅をした。せっぱつまり、旅の仮寝の枕元の一輪を、日本浪漫派と名づけてみた。この一すじ。竹林の七賢人も(やぶ)から出て来て、あやうく餓鬼をのがれん有様、佳き哉、自ら称していう。「われは花にして、花作り。われ未だころあいを知らず。Alles oder Nichts.」
 またいう。「策略の花、可也。沈黙の花、可也。理解の花、可也。物真似の花、可也。放火の花、可也。われら常におのれの発したる一語一語に不抜の責任を持つ。」
 あわれ、この花園の妖しさよ。
 この花園の奇しき美の秘訣を問わば、かの花作りにして花なるひとり、一陣の秋風を呼びて応えん。「私たちは、いつでも死にます。」一語。二語ならば汚し。
 花は、ちらばり乱れて、ひとつひとつ、咲き誇り、「生きて在るものを愛せよ」「おれは新しくない。けれども決して古くはならぬ」「いのちがけならば、すべて尊し」「終局において、人間は、これ語るに足らず」「不可解なのは藤村の表情」「いや、そのことについては、私が」「いや、僕だ。僕だ。」「人は人を(あざわら)うべきでない」云々。
 日本浪漫派(にほんろうまんは)団結せよ、には非ず。日本浪漫派、またその支持者各々の個性をこそ、ゆゆしきものと思い、いかなる侮蔑をもゆるさず、また、各々の生きかた、ならびに作品の特殊性にも、死ぬるともゆずらぬ(ほこり)を持ち、国々の隅々にいたるまで、繚乱せよ、である。


「ソロモン王と賤民(せんみん)


 私は生れたときに、一ばん出世していた。亡父貴族院議員であった。は牛乳で顔を洗っていた。遺児は、次第に落ちぶれた。文章を書いて金にする必要。
 私はソロモン王の底知れぬ憂愁も、賤民(せんみん)の汚さも、両方、知っている筈だ。


「文章」

 文章に善悪の区別、たしかにあり。面貌、姿態の如きものであろうか。宿命なり。いたしかたなし。

 

「文学のためにわがまま」

  太宰は冒頭のエッセイで「文学のためにわがままをするというのは、いいことだ」と書いていますが、このエッセイが書かれた1935年(昭和10年)の太宰について紹介します。

 1935年(昭和10年)、2月1日付発行の「文藝」二月号に、『逆光』のうちの蝶蝶」「決闘」「くろんぼの三篇を発表しました。これが、同人誌以外の商業誌に「太宰治」の名前で小説を発表した最初でした。このデビューは、「文藝」編集者に酒匂郁也という九州出身の酒豪がおり、同じく九州(福岡県)出身で太宰の友人・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)が、太宰のことを極めて多弁していたために決まったものだそうです。

 同年3月、東京帝国大学在学5年目にして取得単位ゼロだった太宰は、ついに落第と決定(正式に除籍となったのは、同年9月30日付。除籍理由は授業料未納のためだった)。慌てて就職活動を開始します。太宰は知人・中村地平の伝手を頼って都新聞社(現在の東京新聞社)の入社試験を受けます。長兄・津島文治から、大学を卒業できなければ仕送りを止めると言われていた太宰は、「東大を卒業できなくても、都新聞社に入社できれば許してもらえるだろう」と最後の足掻きを見せますが、必死の就職活動は失敗に終わってしまいます。

 この東大落第、就職活動の失敗の流れを受けて、太宰が次にとった行動は、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山での縊死未遂事件でした。この縊死未遂は、長兄からの仕送り期間を何とか延長してもらうためにとった、苦肉のパフォーマンスだったとも考えられます。

 決して順風満帆とは言えない「太宰治」のデビューですが、この後、さらなる悲劇が太宰を襲います。
 同年4月4日、腹痛に襲われ、腹部を蒟蒻(こんにゃく)で温めたりしたが治らなかったため、阿佐ヶ谷の篠原病院に行って診察を受けた結果、急性虫様突起炎(盲腸炎)と判明し、すぐに入院。手術を受けましたが、少し手遅れで、汎発性の腹膜炎を併発。危篤の一夜を過ごしましたが、奇跡的に一命をとりとめました。入院中、患部の痛みを鎮めるために医師から注射されていたのがパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤)でした。この後、太宰はパビナール中毒になり、長く苦しむことになります。

 太宰は、篠原病院から世田谷区にある経堂病院に転院。経堂病院の医院長は、長兄の友人・沢田でした。経堂病院に約1ヶ月半入院した後、内縁の妻・小山初代と一緒に転居先を探し求め、同年7月1日、のちに「最も愛着が深かった」(十五年間)と語った千葉県船橋の借家に引越しました。門柱には「津島修治」の脇に小さく「太宰治」と書き加えられた表札が懸けられていたそうです。借家とはいえ、初めての一軒家での心機一転の生活。表札に「太宰治」と書き加えているところからも、作家として生きることの覚悟の片鱗が伺えます。

  さらに同年7月末、新たに創設されたばかりの第一回芥川龍之介賞の候補5作品の中に、自身の『逆光』が選出されたことを初代から聞きます。太宰は、師匠・佐藤春夫の婦人の兄で、太宰の支持者でもあった「倉さん」こと小林倉三郎に電話で確認をし、興奮の色を示していたそうです。太宰は、西郷隆盛によく似ていたという「倉さん」が届けてくれる原稿用紙をずっと使っていました。
 候補選出に浮足立つ太宰でしたが、約2週間後の8月10日、第一回芥川龍之介賞の受賞は石川達三蒼氓(そうぼう)に決定しました。蒼氓(そうぼう)は、「神戸の国立海外移民収容所ブラジル移民収容所の生活を描いた」「百五十枚の力作」(「読売新聞」報道)でした。

 エッセイもの思う葦は、このような怒涛の生活を送っている中で紡がれていきました。決して順風満帆とはいえない、波乱万丈な毎日を過ごしながら作家への道を志し、「文学のためにわがままをするというのは、いいことだ」と言い切ってしまう太宰、さすがです。

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船橋時代の太宰と最初の妻・小山初代

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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