記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』②
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)12月9日か10日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』②は、1935年(昭和10年)12月15日発行の「東京日日新聞」第二一三二七号の第十一面に「新人の立場(四)」の総題のもと、「もの思う葦(下)」の標題で、「感謝の文学」「審判」「無間奈落」「余談」の4篇が発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「感謝の文学

 日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで漕ぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村については、項をあらためて書くつもり。)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。
 けれども、感謝のために、私は、あるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のために、苦労して書いておるにすぎない。人を(あざわら)えず、自分だけを、ときたま笑っておる。そのうちに、わるい文学は、はたと読まれなくなる。民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストメフィストだけを気取り、グレエトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。

「審判」

 人を審判する場合。それは自分に、しかばねを、神を、感じているときだ。


「無間奈落」


 押せども、ひけども、うごかぬ扉が、この世の中にはある。地獄の門をさえ冷然とくぐったダンテもこの扉については、語るを避けた。 


「余談」

 ここには、「鷗外と漱石」という題にて、鷗外の作品、なかなか正当に評価せられざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙出づるほどくやしく思い、参考のノートや本を調べたけれども、「僕輩」の気折れしてものにならず。この夜、一睡もせず。朝になり、ようやく解決を得たり。解決に曰く、時間の問題さ。かれら二十七歳の冬は、云々。へんに考えつめると、いつも、こんな解決也。
 いっそ、いまは記者諸兄と炉をかこみ、ジャアナルということの悲しさについて語らん乎。
 私は毎朝、新聞紙上で諸兄の署名なき文章ならびに写真を見て、かなしい気がする。(ときたま不愉快なることもあり。)これこそ読み捨てられ、見捨てられ、それっきりのもののような気がして、はかなきものを見るもの哉と思うのである。けれども、「これが世の中だ」と囁かれたなら、私、なるほどとうなずくかもしれぬ気配をさえ感じている。ゆく水は二度とかえらぬそうだ。せいせいるてんという言葉もある。この世の中に生れて来たのがそもそも、間違いの発端と知るべし。

 

太宰と鷗外

  今回のエッセイにも登場した文豪・森鷗外。今回は、太宰と鷗外の繋がりについて紹介します。

 森鷗外(1862~1922)は、島根県津和野町生まれの小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚で、本名は林太郎(りんたろう)。代表作に舞姫』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟などがあります。

 鷗外に対する太宰の言及は、作品の中に散見されます。彼は昔の彼ならずでは、鷗外の『青年』に関して「あのかそけきロマンチスズム」と書かれ、誰も知らぬに登場する安井夫人は「鷗外の歴史小説が好きでした」と語っています。女の決闘では、ドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルク(1876~1949)の『女の決闘』を鷗外が翻訳したものを引用しながら、この作品から得た不思議な、おそろしい感銘について述べています。

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森鷗外

 また、太宰の花吹雪では、語り手が鷗外の勇ましさを讃え、鷗外の墓を訪ね、「ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片鱗がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と空想しています。1922年(大正11年)に61歳で病没した鷗外は、墨田区向島弘福寺に埋葬されましたが、関東大震災弘福寺が全焼してしまったため、1927年(昭和2年)に同じ宗派の三鷹禅林寺に移されました。

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三鷹禅林寺 2020年6月20日、著者撮影。

 墓碑には、中村不折の書による「森林太郎墓」と刻まれています。山門近くには、鷗外の遺言碑「一切の栄誉・称号を排す」も建立されています。

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森鷗外の墓 中央の墓碑に「森林太郎墓」と刻まれている。2020年6月20日、著者撮影。

 1948年(昭和23年)6月14日 、愛人の山崎富栄玉川上水で入水した太宰は、花吹雪の場面が縁となり、1948年(昭和23年)7月18日に鷗外の墓の斜め前に埋葬されました。

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■太宰の墓 森鷗外の斜め前に建立。「太宰治」「津島家之墓」2つの墓石が並んでいる。2020年6月20日、著者撮影。

 太宰の妻・石原美知子によって、太宰自筆の墓碑「太宰治」が建てられました。隣には、並んで「津島家之墓」が建てられ、太宰の本名・津島修治、長男・津島正樹、妻・美知子、2020年4月20日に亡くなった長女・津島園子の名前が刻まれています。

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■津島家之墓 右から、津島修治、津島正樹、津島美知子、津島園子の名前が刻まれている。2020年6月20日、著者撮影。

 尊敬していた作家・森鷗外と同じ禅林寺に埋葬された太宰。地下でどんな会話を交わしているのか、気になります。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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