【日刊 太宰治全小説】#16「彼は昔の彼ならず」(『晩年』)
【冒頭】
君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。
【結句】
それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。
「彼 は昔 の彼 ならず」について
・新潮文庫『晩年』所収。
・昭和9年5月下旬から6月初めまでに脱稿。
・昭和9年10月1日、『世紀』十月号に発表。
全文掲載(「青空文庫」)
君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。
僕の家のものほし場は、よく
見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、
こっちへ来給え。このひがしの方面の眺望は、また一段とよいのだ。人家もいっそうまばらである。あの小さな黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、お
まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう。空地の東側には、ふとい
あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくないのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの
いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていた頃であった。そのまえには、むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩をするのである。けれども屋賃だけはきちんきちんと納めたのだから、僕はそのひとに就いてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた。名古屋の支店へ
いまごろはあの屋根のしたで、寝床にもぐりこみながらゆっくりホープをくゆらしているにちがいない。そうだ。ホープを吸うのだ。金のないわけはない。それでも屋賃を払わないのである。はじめからいけなかった。
「敷金は二つですか? そうですか。いいえ、失礼ですけれど、それでは五十円だけ納めさせていただきます。いいえ。私ども、持っていましたところで、使ってしまいます。あの、貯金のようなものですものな。ほほ。明朝すぐに引越しますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。いけないでしょうかしら?」
こんな工合いである。いけないとは言えないだろう。それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだましたほうが悪いのだ。僕は、かまいません、あすでもあさってでもと答えた。男は、甘えるように
引越してその日のひるすぎ、青扇は細君と一緒に僕の家へ挨拶しに来た。彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい
それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと笑ったのである。僕はなんだかてれくさい気がして、たいへんですな、とよい加減な返事をしながら、それでも微笑をかえしてやった。
「うちの女です。よろしく。」
青扇は、うしろにひっそりたたずんでいたやや大柄な女のひとを、おおげさに
青扇もマダムも、まだ彼等の新居に帰ってはいなかった。帰途、買い物にでもまわったのであろうと思って、僕はその不用心にもあけ放されてあった玄関からのこのこ家へはいりこんでしまった。ここで待ち伏せていてやろうと考えたのである。ふだんならば僕も、こんな乱暴な
青扇夫婦は、庭の
「これは、おおやさん。いらっしゃい。」
青扇は箒をかついだまま
「いらっしゃいませ。」
マダムも例の眉をあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかと白い歯を見せ、笑いながら挨拶した。
僕は内心こまったのである。敷金のことはきょうは言うまい。
青扇のすすめるがままに、僕は縁側から六畳の居間にあがった。僕は青扇と対座して、どういう工合いに話を切りだしてよいか、それだけを考えていた。僕がマダムのいれてくれたお茶を一口すすったとき、青扇はそっと立ちあがって、そうして隣りの部屋から将棋盤を持って来たのである。君も知っているように僕は将棋の上手である。一番くらいは指してもよいなと思った。客とろくに話もせぬうちに、だまって将棋盤を持ちだすのは、これは将棋のひとり
青扇は、勝負中は全く無口であった。しっかとあぐらの腰をおちつけて、つまり斜めにかまえていた。
「おなじくらいですな。」彼は駒を箱にしまいこみながら、まじめに
僕は失礼して脚をのばした。頭のうしろがちきちき痛んだ。青扇も将棋盤をわきへのけて、縁側へながながと寝そべった。そうして夕闇に包まれはじめた庭を頬杖ついて眺めながら、
「おや。かげろう!」ひくく叫んだ。「不思議ですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが。」
僕も、縁側に這いつくばって、庭のしめった黒土のうえをすかして見た。はっと気づいた。まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて坐り直した。
「木下さん。困りますよ。」そう言って、例の
青扇はなぜかぎょっとしたらしく顔つきを変えて立ちあがった。僕も身構えた。
「なにもございませんけれど。」
マダムが縁側へ出て来て僕の顔を
「そうか。そうか。」青扇は、せかせかした調子でなんども
僕はこのうえめしのごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこの熨斗袋の始末だけはつけたいと思い、マダムについて部屋へはいった。それがよくなかったのである。酒を呑んだのだ。マダムに一杯すすめられたときには、これは困ったことになったと思った。けれども二杯三杯とのむにつれて、僕はしだいしだいに落ちついて来たのである。
はじめ青扇の自由天才流をからかうつもりで、床の軸物をふりかえって見て、これが自由天才流ですかな、と尋ねたものだ。すると青扇は、酔いですこし赤らんだ眼のほとりをいっそうぽっと赤くして、苦しそうに笑いだした。
「自由天才流? ああ。あれは嘘ですよ。なにか職業がなければ、このごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたので、ま、あんな
僕は青扇をよっぽど
「失礼ですけれど、無職でおいでですか?」
また五円の切手が気になりだしたのである。きっとよくない仕掛けがあるにちがいないと考えた。
「そうなんです。」杯をふくみながら、まだにやにや笑っていた。「けれども御心配は要りませんよ。」
「いいえ。」なるたけよそよそしくしてやるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の切手がだいいちに気がかりなのです。」
マダムが僕にお酌をしながら口を出した。
「ほんとうに。」ふくらんでいる小さい手で
「そうですか。」僕は思わず笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金の、」滑らせかけて口を
「そうですか。」青扇が僕の口真似をした。「わかりました。あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです。」
そう言われてみるときょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合せて笑いこけた。
僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオやショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当するような人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、全校の生徒の姓名とそれぞれの出身中学校とを
酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。
「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか?」
「研究?」青扇はいたずら児のように、首をすくめて大きい眼をくるっとまわしてみせた。「なにを研究するの? 私は研究がきらいです。よい加減なひとり合点の註釈をつけることでしょう? いやですよ。私は創るのだ。」
「なにをつくるのです。発明かしら?」
青扇はくつくつと笑いだした。黄色いジャケツを脱いでワイシャツ一枚になり、
「これは面白くなったですねえ。そうですよ。発明ですよ。無線電燈の発明だよ。世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、ちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。私は役者ですよ。」
マダムは眼をふたつ
「だめでございますよ。酔っぱらったのですの。いつもこんな
「なにが出鱈目だ。うるさい。おおやさん、私はほんとに発明家ですよ。どうすれば人間、有名になれるか、これを発明したのです。それ、ごらん。
僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉のうえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。
僕もしたたかに酔ったようであった。とうとう、僕は懐中の切手を出し、それでもってお蕎麦屋から酒をとどけさせたのである。そうして僕たちは更に更にのんだのである。ひとと始めて知り合ったときのあの浮気に似たときめきが、ふたりを気張らせ、無智な雄弁によってもっともっとおのれを相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはお互いに感じ合っていたようである。僕たちは、たくさんの
「君を好きだ。」僕はそう言った。
「私も君を好きなのだよ。」青扇もそう答えたようである。
「よし。万歳!」
「万歳。」
たしかにそんな工合いであったようである。僕には、酔いどれると万歳と叫びたてる悪癖があるのだ。
酒がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだったからであろう。そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。
ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の
「先晩はどうも。」僕は
「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」
僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。
「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑んだ。
「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。
「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これを画いたペンキ屋の奴、この風呂へは、決して来ませんよ。」
「来るのじゃないでしょうか。自分の画を眺めながら、しずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。」
僕のそういったような言葉はどうやら青扇の
青扇は、さきに風呂から出た。僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく見ていた。きょうは鼠いろの
「はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。いいえ。男と男とのあいだのことですよ。」
その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、
「ええ。」新聞から眼を離さずにそう答えた。下唇をつよく噛んで、不気嫌であった。
「まだ風呂から帰らないのですか?」
「そう。」
「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」
「あてになりませんのでございますよ。」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。
「それでは、しつれいいたします。」
「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。
僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の
「木下を信用しないほうがよござんすよ。」
だしぬけに耳のそばでそう
「なぜですか?」僕はまじめであった。
「だめなんですの。」片方の眉をきゅっとあげて小さい
僕は危く失笑しかけた。青扇が日頃、へんな
「出鱈目は、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。
「天才だなんて。まさか。」マダムは、僕のお茶の飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。
僕は湯あがりのせいで、のどが渇いていた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と追及してみた。はじめから、少しでも青扇の正体らしいものをさぐり出そうとかかっていたわけである。
「威張るのですの。」そういう返事であった。
「そうですか。」僕は笑ってしまった。
この女も青扇とおなじように、うんと利巧かうんと
「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっているときでも、爪を切っているときでも。」
「まあ。だからいたわってやれとおっしゃるの?」
僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら笑いの意味をこめて、なにか
「いいえ。」マダムは
喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。
「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」
夕闇がせまっていて
愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな男にうっかり家を貸したことを後悔しはじめたのだ。
そのうちに、僕の不吉の予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても、青扇からなんの音沙汰もないのである。家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことも
五月のおわり、僕はとうとう思い切って青扇のうちへ訪ねて行くことにした。朝はやくでかけたのである。僕はいつでもそうであるが、思い立つと、一刻も早くその用事をすましてしまわなければ気がすまぬのである。行ってみると、玄関がまだしまっていた。寝ているらしいのだ。わかい夫婦の寝ごみを襲撃するなど、いやであったから、僕はそのまま引返して来たのである。いらいらしながら家の庭木の手入れなどをして、やっと昼頃になってから僕はまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどは僕も庭のほうへまわってみた。庭の五株の
青扇のうちにはあかりがついていて、玄関もあいていた。声をかけると、誰? という青扇のかすれた返事があった。
「僕です。」
「ああ。おおやさん。おあがり。」六畳の居間にいるらしかった。
うちの空気が、なんだか陰気くさいのである。玄関に立ったままで六畳間のほうを
「もうおやすみですか。」
「え。いいえ。かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。」そんなことを言い言い、どうやら部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。「どうも、しばらくです。」
僕の顔をろくろく見もせず、すぐうつむいてしまった。
「屋賃は当分だめですよ。」だしぬけに言ったのである。
僕は
「マダムが逃げました。」玄関の
「どうしてです。」僕はどきっとしたのだ。
「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。そんな女なのです。」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。
「いつごろです。」僕は玄関の式台に腰をおろした。
「さあ、先月の中旬ごろだったでしょうか。あがらない?」
「いいえ。きょうは他に用事もあるし。」僕には少し薄気味がわるかったのである。
「恥かしいことでしょうけれど、私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって。」
せかせか言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている気がまえを見てとった。僕はわざわざ
「なぜ働かないのかしら?」僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話込んでやろうとひそかに決意していた。
「働けないからです。才能がないのでしょう。」相変らずてきぱきした語調であった。
「冗談じゃない。」
「いいえ。働けたらねえ。」
僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、屋賃のことがどうにもならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。
「それでは困るじゃないですか。僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。」吸いかけの煙草を土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。
「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」
僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから気にかかっていた青扇の顔をそのマッチのあかりでちらと覗いてみることができた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落したのである。悪鬼の面を見たからであった。
「それでは、いずれまた参ります。ないものは頂戴いたしません。」僕はいますぐここからのがれたかった。
「そうですか。どうもわざわざ。」青扇は神妙にそう言って、立ちあがった。それからひとりごとのように
僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか
僕はそれから二三日、青扇のことばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとすれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心ができないと考えたのだ。
五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶もないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである。
その日、青扇はスポオツマンらしく、
庭の
「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫ですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇は僕とならんでソファに腰をおろしてから、隣りの部屋へ声をかけたのである。
水兵服を着た小柄な女が、四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。
「おおやさんだよ。ご挨拶をおし。うちの女です。」
僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥らいをふくんだ
「どんなお仕事でしょう。」
その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮をよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。
「小説です。」
「え?」
「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。
「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。
「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ。」
青扇は彼の新妻のことで
「ほんとうによいのですか。困りますよ。」
「大丈夫。大丈夫。ええ。」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。
そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。
「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの
「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです。」
少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。
「どうしたのです。」僕には訳がわからなかった。
「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。
僕はいやな気がした。
「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうはダリヤでした。おとといは蛍草でした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら。」
この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。
「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか?」
「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」
僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、
「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。」
「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」
これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに
「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。」
「これは、ひどいなあ。」青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶の茶碗をそっと取りあげ、自分のと一緒にソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今ではあの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが。」
僕は青扇の顔を見直した。
「それはつまり抽象して言っているのでしょうか。」
「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているのですけれど?」
僕はまたまた
「まあ、きょうは僕はこれで帰りましょう。きっとお仕事をはじめて下さい。」そう言い置いて、青扇の家を出たのであるが、帰途、青扇の成功をいのらずにおれなかった。それは、青年についての青扇の言葉がなんだか僕のからだにしみついて来て、自分ながらおかしいほどしおれてしまったせいでもあるし、また、青扇のあらたな結婚によって何やら彼の幸福を祈ってやりたいような気持ちになっていたせいでもあろう。みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。
僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。
けれども僕は、この僕の決意を青扇に告げてやるようなことは
七月のおわり、僕は青扇のもとをまた訪れたのであるが、こんどはどんなによくなっているか、何かまた進歩や変化があるだろう。それを楽しみにしながら出かけたのであった。行ってみて
僕はその日、すぐに庭から六畳の縁側のほうへまわってみたのであるが、青扇は
「やあ。薄茶でございますよ。茶をたてているのです。こんなに暑いときには、これに限るのですよ。一杯いかが?」
僕は青扇の言葉づかいがどこやら変っているのに気がついた。けれども、それをいぶかしがっている場合ではなかった。僕はその茶をのまなければならなかったのである。青扇は茶碗をむりやりに僕に持たせて、それから傍に脱ぎ捨ててあった
「どうしてまた。風流ですね。」
「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ。」
「へえ。」
「書いていますよ。」青扇は
床の間にはこのあいだの石膏の像はなくて、その代りに、
「こんなのを書きたいと思いまして、文献を集めているのですよ。」
僕は薄茶の茶碗をしたに置いて、その二三枚の紙片を受けとった。婦人雑誌あたりの切り抜きらしく、四季の渡り鳥という題が印刷されていた。
「ねえ。この写真がいいでしょう? これは、渡り鳥が海のうえで深い霧などに襲われたとき方向を見失い光りを慕ってただまっしぐらに飛んだ罰で燈台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。何千万という死骸です。渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。旅が生活なのですからねえ。ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。わたくし、これを一元描写でやろうと思うのさ。私という若い渡り鳥が、ただ東から西、西から東とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。仲間がだんだん死んでいきましてね。鉄砲で打たれたり、波に呑まれたり、飢えたり、病んだり、巣のあたたまるひまもない悲しさ。あなた。沖の
僕は彼の雄弁のかげに、なにかまたてれかくしの意図を
「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい。」
「お帰りですか? 薄茶を、もひとつ。」
「いや。」
僕は帰途また思いなやまなければいけなかった。これはいよいよ、災難である。こんな出鱈目が世の中にあるだろうか。いまは非難を通り越して、あきれたのである。ふと僕は彼の渡り鳥の話を思い出したのだ。突然、僕と彼との相似を感じた。どこというのではない。なにかしら同じ体臭が感ぜられた。君も僕も渡り鳥だ、そう言っているようにも思われ、それが僕を不安にしてしまった。彼が僕に影響を与えているのか、僕が彼に影響を与えているのか、どちらかがヴァンピイルだ。どちらかが、知らぬうちに相手の気持ちにそろそろ食いいっているのではあるまいか。僕が彼の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化をして行かなければいけないように努めているのであるまいか。あれこれと考えれば考えるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。
八月には、僕は
庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。
「不思議です。きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな仕度をして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ。」
やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。
「どうです。お仕事ができましたか?」
「それが駄目でした。この
僕は思わず笑わされた。
「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよくおいでくださいました。」黒ずんでいる唇をおどけものらしくちょっと
「ずっとこっちにいたのですか。」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。コップの中には
「ええ。」青扇は卓に両
「ああ。お
「ありがとう。」
何か考えているらしく、僕の差しだす干物には眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼が坐っていた。もう酔っているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫を
「
「どうしたのです。へんに
僕は膝をくずして、わざと庭を眺めた。いちいちとり合っていても仕様がないと思ったのである。
「
僕は聞えぬふりして卓のしたの
「あなた。私はまたひとりものですよ。」
僕は振りかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。
「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは
「いいえ。みんな逃げてしまうのです。どう仕様もないさ。」
「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、あなたは女の金で暮していたのでしょう?」
「あれは嘘です。」彼は卓のしたのニッケルの煙草入から煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。「ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。あなた。
「莫迦だね。」僕は悲しい気持ちでビイルをあおった。
「金があればねえ。金がほしいのですよ。私のからだは腐っているのだ。五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。」
「そんなことは気にしなくてよいよ。」
屋賃などあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草がホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりないわけでもないな、と思ったのだ。
青扇は、僕の視線が彼の煙草にそそがれていることを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようであった。
「ホープはいいですよ。甘くもないし、辛くもないし、なんでもない味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか。」ひとりでそんな弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくり
「それで書けましたか。」
「駄目でした。」
僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。
「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似るだけだねえ。」
「そんなことはないだろう。あとのひとほど巧いと思うな。」
「どこからそんなだいそれた確信が得られるの? 軽々しくものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それができないのです。」
日が暮れかけていた。青扇は団扇でしきりに
「けれど、無性格は天才の特質だともいうね。」
僕がこころみにそう言ってやると、青扇は、不満そうに口を尖らせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕の酔がさめた。やっぱりそうだ。これは、きっと僕の真似だ。いつか僕がここの最初のマダムに天才の出鱈目を教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを
「あなたも子供ではないのだから、
「あああ。こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。」青扇はひとりごとのように
僕が庭先へおりるとき、暗闇のために
「おおやさん。電燈をとめられているのです。」
やっと下駄を捜しだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっと
十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒になったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂もしまいになりかけていたころであった。青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って足の指の爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、
「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは私、爪と髪ばかり伸びて。」
にやにやうす笑いしてそんなことを言い言いぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいてどてらを着込み、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。僕にはそれもまたさもしい感じで、ただ
ことしのお正月、僕は近所へ年始まわりに歩いたついでにちょっと青扇のところへも立ち寄ってみた。そのとき玄関をあけたら赤ちゃけた胴の長い犬がだしぬけに僕に吠えついたのにびっくりさせられた。青扇は、卵いろのブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、妙に若がえって出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか迷いこんで来たものであるが、二三日めしを食わせてやっているうちに、もう忠義顔をしてよそのひとに吠えたててみせているのだ、そのうちどこかへ捨てに行くつもりです、とつまらぬことを挨拶を抜きにして言いたてたのである。おおかたまたてれくさい事件でも起っているのだろうと思い、僕は青扇のとめるのも振りきってすぐおいとまをした。けれども青扇は僕のあとを追いかけて来たのである。
「おおやさん。お正月早々、こんな話をするのもなんですけれど、私は、いまほんとうに気が狂いかけているのです。うちの座敷へ小さい
「新しい奥さんができたのですか。」僕はできるだけ意地わるい口調で言ってみた。
「ああ。」子供みたいにはにかんでいた。
おおかたヒステリイの女とでも
ついこのあいだ、二月のはじめころのことである。僕は夜おそく思いがけない女のひとのおとずれを受けた。玄関へ出てみると、青扇の最初のマダムであったのである。黒い毛のショオルにくるまって荒い
「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ。」怒ったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。
「それは。」僕にはほかに言いようがなかったのである。
「こっちが恋いしくなったものですから。」余念なげにそう
僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。
「木下さんはどうしています。」
「相変らずでございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。
「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです。」
「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」
僕は
「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、
マダムはくすくす笑いながら答えた。
「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって。」
僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、霜でふくれあがった土が
「いや。」僕はわざと笑った。「そんなことでなしに、何かお仕事でもはじめていませんか?」
「もう、骨のずいからの怠けものです。」きっぱり答えた。
「どうしたのでしょう。失礼ですが、いくつなのですか? 四十二歳だとか言っていましたが。」
「さあ。」こんどは笑わなかったのである。「まだ三十まえじゃないかしら。うんと若いのでございますのよ。いつも変りますので、はっきりは私にもわかりませんのですの。」
「どうするつもりかな。勉強なんかしていないようですね。あれで本でも読むのですか?」
「いいえ、新聞だけ。新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。ていねいに読むことよ。政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます。」
僕たちはあの空地へ出た。原っぱの霜は清浄であった。月あかりのために、石ころや、笹の葉や、
「友だちもないようですね。」
「ええ。みんなに悪いことをしていますから、もうつきあえないのだそうです。」
「どんな悪いことを。」僕は金銭のことを考えていた。
「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。それでも悪いことですって。あのひと、ものの善し悪しがわからないのでございますのよ。」
「そうだ。そうです。善いことと悪いことがさかさまなのです。」
「いいえ。」
「ええ。」僕はあまり話を聞いていなかった。
「季節ごとに変えるようなものだわ。真似しましたでしょう?」
「なんです。」すぐには呑みこめなかった。
「真似をしますのよ、あのひと。あのひとに意見なんてあるものか。みんな女からの影響よ。文学少女のときには文学。下町のひとのときには
「まさか。そんなチエホフみたいな。」
そう言って笑ってやったが、やはり胸がつまって来た。いまここに青扇がいるなら彼のあの細い肩をぎゅっと抱いてやってもよいと思ったものだ。
「そんなら、いま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたを真似しているというわけなのですね。」僕はそう言ってしまって、ぐらぐらとよろめいた。
「ええ。私、そんな男のかたが好きなの。もすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。でも、もうおそいの。私を信じなかった罰よ。」軽く笑いながら言ってのけた。
僕はあしもとの土くれをひとつ
「むかえに来たのだよ。」
青扇はひくい声でそう言ったのであるが、あたりの静かなせいか、僕にはそれが異様にちかちか痛く響いた。彼は月の光りさえまぶしいらしく、
僕は、今晩はと挨拶したのである。
「今晩は。おおやさん。」あいそよく応じた。
僕は二三歩だけ彼に近寄って尋ねてみた。
「なにかやっていますか。」
「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃあるまいし。」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえの甘ったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやっていますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現われて来ています。ほら。ね、ね。運勢がひらける証拠なのです。」
そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。
運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかったのか。
おい。見給え。青扇の御散歩である。あの
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