【日刊 太宰治全小説】#215「未帰還の友に」
【冒頭】
君が大学を出てそれから故郷の仙台の舞台に入営したのは、あれは太平洋戦争のはじまった翌年、昭和十七年の春ではなかったかしら。それから一年経って、昭和十八年の早春に、アス五ジウエノツクという君からの電報を受け取った。
【結句】
自分だけ生き残って、酒を飲んでいたって、ばからしい。ひょっとしたら、僕はもう、酒をよす事になるかも知れぬ。
「未帰還の友に」について
・新潮文庫『津軽通信』所収。
・昭和21年4月下旬頃に脱稿。
・昭和21年5月1日、『潮流』五月号に掲載。
全文掲載(「青空文庫」より)
一
君が大学を出てそれから故郷の仙台の部隊に入営したのは、あれは太平洋戦争のはじまった翌年、昭和十七年の春ではなかったかしら。それから一年
あれは、三月のはじめ頃ではなかったかしら。何せまだ、ひどく寒かった。僕は暗いうちから起きて、上野駅へ行き、改札口の前にうずくまって、君もいよいよ戦地へ行くことになったのだとひそかに推定していた。遠慮深くて
君と
ざッざッざッという軍靴の響きと共に、君たち幹部候補生二百名くらいが四列縦隊で改札口へやって来た。僕は改札口の傍で
「や。」
「や。」
という具合になり、君は軍律もクソもあるものか、とばかりに列から抜けて、僕のほうに走り寄り、
「お待たせしまスた。どうスても、逢いたくてあったのでね。」と言った。
僕は君がしばらく故郷の部隊にいるうちに、ひどく東北
ざッざッざッと列は僕の眼前を通過する。君はその列にはまるで無関心のように、やたらにしゃべる。それは君が、僕に逢ったらまずどのような事を言って君自身の進歩をみとめさせてやろうかと、汽車の中で考えに考えて来た事に違いない。
「生活というのは、つまり、何ですね、あれは、何でも無い事ですね。僕は、学校にいた頃は、生活というものが、やたらにこわくて、いけませんでしたが、しかス、何でも無いものであったですね。軍隊だって生活ですからね。生活というのは、つまり、何の事は無い、身辺の者との附合いですよ。それだけのものであったですね。軍隊なんてのは、つまらないが、しかス、僕はこの一年間に
列はどんどん通過する。僕は気が気でない。
「おい、大丈夫か。」と僕は小声で注意を与えた。
「なに、かまいません。」と君は、その列のほうには振り向きもせず、「僕はいま、ノオと言えるようになったですね。生活人の強さというのは、はっきり、ノオと言える勇気ですね。僕は、そう思いますよ。身辺の者との附合いに於いて、ノオと言うべき時に、はっきりノオと言う。これが出来た時に、僕は生活というものに自信を得たですね。先生なんかは、未だにノオと言えないでしょう? きっと、まだ、言えませんよ。」
「ノオ、ノオ。」と僕は言って、「生活論はあとまわしにして、それよりも君、君の身辺の者はもう向うへ行ってしまったよ。」
「相変らず先生は臆病だな。落着きというものが無い。あの身辺の者たちは、駅の前で解散になって、それから朝食という事になるのですよ。あ、ちょっとここで待っていて下さい。弁当をもらって来ますからね。先生のぶんも
君はどういう意味か、紫の袋にはいった君の軍刀を僕にあずけて、走り去った。僕は、まごつきながらも、その軍刀を右手に持って君を待った。しばらくして君は、竹の皮に包まれたお弁当を二つかかえて現れ、
「残念です。
「何時間も無いのか? もう、すぐか?」と僕は、君の
「十一時三十分まで。それまでに、駅前に集合して、すぐ出発だそうです。」
「いま何時だ。」君の愚かな先生は、この十五、六年間、時計というものを持った事が無い。時計をきらいなのでは無く、時計のほうでこの先生をきらいらしいのである。時計に限らず、たいていの家財は、先生をきらって寄り附かない具合である。
君は、君の腕時計を見て、時刻を報告した。十一時三十分まで、もう三時間くらいしか無い。僕は、君を吉祥寺のスタンドバアに引っぱって行く事を、断念しなければいけなかった。上野から吉祥寺まで、省線で一時間かかる。そうすると、往復だけで既に二時間を費消する事になる。あと一時間。それも落着きの無い、絶えず時計ばかり気にしていなければならぬ一時間である。意味無い、と僕はあきらめた。
「公園でも散歩するか。」泣きべそを
僕は今でもそうだが、こんな時には、お祭りに連れて行かれず、家にひとり残された子供みたいな、天をうらみ、地をのろうような、どうにもかなわない
「まいりましょう。」と言う。
僕は君に軍刀を手渡し、
「どうもこの
「先生には、まだ色気があるんですね。恥かしかったですか?」
「すこし、恥かしかった。」
「そんなに
僕たちは駅から出て上野公園に向った。
「兵隊だって見栄坊さ。趣味のきわめて悪い見栄坊さ。」
帝国主義の侵略とか何とかいう理由からでなくとも、僕は本能的に、
「酒を飲みたいね。」と僕は、公園の石段を登りながら、低くひとりごとのように言った。
「それも、悪い趣味でしょう。」
「しかし、少くとも、見栄ではない。見栄で酒を飲む人なんか無い。」
僕は公園の南洲の銅像の近くの茶店にはいって、酒は無いかと聞いてみた。有る
茶店の娘さんに冷く断られても、しかし、僕はひるまなかった。
「御主人がいませんか。ちょっと逢いたいのですが。」と僕は
やがて出て来た頭の
「何かありませんか。なんでもいいんです。ひとえにあなたの
「よろしい!」とその頭の禿げた主人は、とうとう義侠心を発揮してくれた。「そんなわけならば、私の晩酌用のウィスキイを、わけてあげます。お金は、こんなにたくさん
主人は、憤激しているようなひどく興奮のていで、
そうして、僕たちはその座敷にあがり込んで乾杯した。
「先生、相変らずですねえ。」
「相変らずさ。そんなにちょいちょい変ってはたまらない。」
「しかし、僕は変りましたよ。」
「生活の自信か。その話は、もうたくさんだ。ノオと言えばいいんだろう?」
「いいえ、先生。抽象論じゃ無いんです。女ですよ。先生、飲もう。僕は、ノオと言うのに骨を折った。先生だって悪いんだ。ちっとも頼りになりやしない。菊屋のね、あの娘が、あれから、ひどい事になってしまったのです。いったい、先生が悪いんだ。」
「菊屋? しかし、あれは、あれっきりという事に、……」
「それがそういかないんですよ。僕は、ノオと言うのに苦労した。実際、僕は人が変りましたよ。先生、僕たちはたしかに間違っていたのです。」
意外な苦しい話になった。
二
菊屋というのは、高円寺の、以前僕がよく君たちと一緒に飲みに行っていたおでんやの名前だった。その頃から既に、日本では酒が足りなくなっていて、僕が君たちと飲んで文学を談ずるのに
まず僕が、或る日の午後、まだおでんやが店をあけていない時に、その店の裏口から真面目くさってはいって行った。
「おじさん、いるかい。」と僕は、台所で働いている娘さんに声をかけた。この娘さんは既に女学校を卒業している。十九くらいではなかったかしら。内気そうな娘さんで、すぐ顔を赤くする。
「おります。」と小さい声で言って、もう顔を真赤にしている。
「おばさんは?」
「おります。」
「そう。それはちょうどいい。二階か?」
「ええ。」
「ちょっと用があるんだけどな。呼んでくれないか。おじさんでも、おばさんでも、どっちでもいい。」
娘さんは二階へ行き、やがて、おじさんが
「用事ってのは、酒だろう。」と言う。
僕はたじろいだが、しかし、気を取り直し、
「うん、飲ませてくれるなら、いつだって飲むがね。しかし、ちょっとおじさん、話があるんだ。店のほうへ来ないか?」
僕は薄暗い店のほうにおじさんをおびき寄せた。
あれは昭和十六年の暮であったか、昭和十七年の正月であったか、とにかく、冬であったのはたしかで、僕は店のこわれかかった
「まあ、あなたもお坐り。悪い話じゃない。」
おじさんは、渋々、僕と向い合った椅子に腰をおろして、
「結局は、酒さ。」とぶあいそな顔で言った。
僕は、見破られたかと、ぎょっとしたが、ごまかし笑いをして、
「信用が無いようだね。それじゃ、よそうかな。マサちゃん(娘の名)の縁談なんだけどね。」
「だめ、だめ。そんな手にゃ乗らん。何のかのと言って、それから、酒さ。」
実に、
「そんなにはっきり言うなよ。残酷じゃないか。そりゃどうせ僕たちは、酒を飲ませていただきたいよ。そりゃそうさ。」と僕は、ほとんど破れかぶれになり、「しかし、僕の見るところでは、あのマサちゃんは、おじさんに似合わず、全く似合わず、いい子だよ。それでね、僕の友人でいま東京の帝大の文科にはいっている鶴田君、と言ってもおじさんにはわからないだろうが、ほら、僕がいつも引っぱって来る大学生の中で一ばん背が高くて色の白い、
おじさんは、うんざりしたように顔をしかめたが、僕は平気で、
「その鶴田君だがね、母ひとり子ひとりなんだ。もうすぐ帝大を卒業して、まあ文学士という事になるわけだが、
しかし、かのおじさんは、いかにも馬鹿々々しいというような顔つきをして横を向き、
「冗談じゃない。あんたに、そんな大事な息子さんを。」と言い、てんで相手にしてくれない。
「いや、そうじゃない。まかせられているのだ。」と僕は厚かましく言い張り、「ところで、どうだろう。その鶴田君と、マサちゃんと。」と言いかけた時に、おじさんは、
「馬鹿らしい。」と言って立ち上り、「まるで気違いだ。」
さすがに僕もむっとして、奥へ引き上げて行くおじさんのうしろ姿に向い、
「君は、ひとの親切がわからん人だね。酒なんか飲みたかねえよ。ばかものめ。」と言った。まさに、めちゃ苦茶である。これで僕たちの、れいの悪計も台無しになったというわけであった。
僕は、その夜、僕の家へ遊びにやって来た君たちに向って、われらの密計ことごとく破れ果てた事を報告し、謝罪した。けだし、僕たちの策戦たるや、かの
「だめだなあ、先生は。」と君はさかんに僕を
「やけ酒でも飲むか。」と僕は立ち上る。
その夜は、三鷹、吉祥寺のおでんや、すし屋、カフェなど、あちこちうろついて頼んでみても、どこにも酒が一滴も無かった。やはり、菊屋に行くより他は無い。少からず、てれくさい思いであったが、
その夜、僕たちはおかみさんから意外の厚遇を
僕はわざと大声で、
「鶴田君! 君は、ふだんからどうも、酒も何も飲まず、まじめ過ぎるよ。今夜は、ひとつ飲んでみたまえ。これもまた人生修行の一つだ。」などと、大酒飲みの君に向って言う。
馬鹿らしい事であったが、しかし、あれも今ではなつかしい思い出になった。僕たちは、図に乗って、それからも、しばしば菊屋を襲って大酒を飲んだ。
菊屋のおじさんは、てんでもう、縁談なんて信用していないふうであったが、しかし、おかみさんは、どうやら、半信半疑ぐらいの傾きを示していたようであった。
けれども僕たちの目的は、菊屋に於いて大いに酒を飲む事にある。従ってその縁談に於いては甚だ不熱心であり、時たま失念していたりする仕末であった。菊屋へ行ってお酒をねだる時だけ、
「何せ僕は、全権を委託されているのだからなあ。僕の責任たるや、軽くないわけだよ。」
などと、とってつけたように、思わせぶりの感慨をもらし、
もう、それで、おしまいとばかり僕は思っていたのだが、それから一年経ち、あの上野公園の茶店で、僕たちはもうこれが永遠のわかれになるかも知れないそのおわかれの
その日の、君の物語るところに
君はその手紙には返事を出さずにいた。するとまた、十日くらい経って、さらに
「白状しますとね。」と君は、その日、上野公園の茶屋でさかんにウィスキイをあおりながら、「僕は、はじめから、あの人を好きだったのですよ。岡野金右衛門だの何だの、そんなつまらない策略からではなく、僕は、はじめから、あの人となら本当に結婚してもいいと思っていたのですよ。でも、それを先生に言うと、先生に軽蔑されやしないかと思って、黙っていたのですがね。」
「軽蔑なんか、しやしないさ。」僕は、なぜだか、ひどく憂鬱な気持であった。
「軽蔑するにきまっていますよ。先生はもう、ひとの恋愛なんか、いつでも頭から茶化してしまうのだから。菊屋の、ほら、あの娘も、二人がこんな手紙を交換している事を、先生にだけは知らせたくない、と手紙に書いて寄こしたこともあって、僕もそれに賛成して、それでいままで、この事は先生には絶対秘密という事になっていたのですが、しかし、僕もこんど戦地へ行って、たいていまあ死ぬという事になるだろうし、ずいぶん考えました。はんもんしたんだ。そうして僕は、あの娘に対して、やっぱり、ノオと言わなければならぬ立場なのだと
「でも、それはひどいじゃないか。」
「まさか、そんな、先生を恨め、とは書きませんが、この恋愛は、はじめから終りまで、でたらめだったのだと書いてやりました。」
「しかし、そんな極端ないじめ方をしちゃ、
「いいえ、でも、それほどまでに強く書かなくちゃ駄目なんです。彼女は、彼女は、僕の帰還を何年でも待つ、と言って寄こしているのですから。」
「悪かった、悪かった。」ほかに言いようの無い気持だった。
三
ささやかな事件かも知れない。しかし、この事件が、当時も、またいまも、僕をどんなに苦しめているかわからない。すべて、僕の責任である。僕は、あの日、君と別れて、その帰りみち、高円寺の菊屋に立寄った。実にもう、一年振りくらいの訪問であった。表の戸は、しまっている。裏へ廻ったが、台所の戸も、しまっている。
「菊屋さん、菊屋さん。」と呼んだが、何の返事も無い。
あきらめて家へ帰った。しかし、どうにも気がかりだ。僕はそれから十日ほど経って、また高円寺へ行ってみた。こんどは、表の戸が
「あの、おじさんは?」
「菊川さんか?」
「ええ。」
「四、五日前、皆さん
「前から、そんな話があったのですか?」
「いいえ、急にね。荷物も大部分まだここに置いてあります。わたしは、その留守番みたいなもので。」
「田舎は、どこです。」
「埼玉のほうだとか言っていました。」
「そう。」
彼等のあわただしい移住は、それは何も僕たちに関係した事では無いかも知れないけれども、しかし、君のその「ノオ」の手紙が、僕と君が上野公園で別盃をくみかわしたあの日の前後に着いたとしたら、この菊屋一家の移住は、それから四、五日後に行われた事になる。何だか、そこに、
それから半年ほども経ったろうか、戦地の君から飛行郵便が来た。君は南方の或る島にいるらしい。その手紙には、別に菊屋の事は書いてなかった。
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