【冒頭】
この津軽へ来たのは、八月。それから、ひとつきほど
【結句】
「
「雀」について
・新潮文庫『津軽通信』所収。
・昭和21年1月25日に脱稿。
・昭和21年10月1日、『思潮』第三号に掲載。
全文掲載(「青空文庫」より)
この津軽へ来たのは、八月。それから、ひとつきほど経って、私は津軽のこの金木町から津軽鉄道で一時間ちかくかかって行き着ける
「や、修治。」と私の幼名を呼ぶ者がある。
「や、慶四郎。」と私も答えた。
加藤慶四郎君は白衣である。胸に
「御苦労様だったな。」私のこんな時の
「君は?」
「戦災というやつだ。念いりに二度だ。」
「そう。」
向うも赤面し、私も赤面し、まごついて、それから、とにかく握手した。
慶四郎君は、私と小学校が同クラスであった。
「しかし、まあ、よかったね。」と私は、少しも要領を得ない事を言った。何と言ったらいいか、わからないのである。
「うん、よかった。」と慶四郎君は、平気で応じて、「もう少しで死ぬとこでしたよ。」
「そうだろう、そうだろう。」と私は少し
「いや、駄目なんだ。」と慶四郎君は断り、「これだ。」と言って白衣の胸を軽く
「そうか。酒はどうだい。酒もあるぜ。」と私は足もとの風呂敷包をちょっと持ち上げて見せる。「肺病には煙草は、いけないが、酒は体質に
「飲みたいな。」と慶四郎君は素直に答えて、「何もう胸のほうは、すっかりいいんだけれどもね、煙草はどうも
「イトウ?」
「そう。伊豆の伊東温泉さ。あそこで半年ばかり療養していたんだ。中支に二年、南方に一年いて、病気でたおれて、伊東温泉で療養という事になったんだが、いま思うと、伊東温泉の六箇月が一ばん永かったような気がするな。からだが治って、またこれから戦地へ行かなくちゃならんのかと思ったら、
「君がきょう帰るのを、君のうちでは知っているのか。」
「知らないだろう。近く帰れるようになるかも知れんという事は葉書で言ってやって置いたが。」
「それはひどいよ。妻子も、金木の家へ来ているんだろう?」
「うん、召集と同時に女房と子供は、こっちの家へ
「これを持って行き給え。ね、これは上等酒だとかいう話だよ。持って行き給え。金木にもね、いまはお酒はちっとも無いんだよ。これを持って行って、久し振りで女房のお
「君のお酌なら、飲んでもいいな。」
「いや、僕は遠慮しよう。細君から邪魔者あつかいにされてもつまらない。とにかくこれは持って行ってくれ。君がきょう帰るという事を家に知らせていないとすると、君の家では、きょうはお酒の
「いや、一緒に飲もう。今夜、君がこれをさげて僕の家へ遊びに来てくれたら、一ばん有難いんだがな。」
「それは、ごめんだ。それだけは、まっぴらだ。二、三日経ってからなら。」
「じゃあ、二、三日経ってからでもいいから遊びに来てくれ。この酒は
「無い、無い。金木にはいま、まるっきり清酒が無いんだ。とにかくきょうは、この酒を君が持って行かなくちゃいけない。」
私たちは金木駅に着くまで、その一升の清酒にこだわった。
結局、そのお酒は慶四郎君が持って行く事になったが、そのかわり、私も二、三日中に慶四郎君の家へ遊びに行かなければならなくなった。
そうして約束どおり私は三日後に、慶四郎君の家を訪ねたのであるが、彼は私の贈った清酒一升には少しも手をつけずに私を待っていてくれた。私たちは
そうしてその夜、私は次のような話を彼から聞いた。
中支に二年、南方に一年いたが、いま思うとまるでもう遠い夢のようで、それにまた、兵隊として走り廻っているのが、この自分では無いような気がして、あの当時の事は、まったく語りたくない。語っても、
あれはもう初夏の頃で、そろそろれいの中小都市爆撃がはじまって、熱海伊東の温泉地帯もほどなく焼き払われるだろうということになり、荷物の疎開やら老幼者の避難やらで悲しい活気を呈していた。その頃の事だが、
「兵隊さん、雨に
療養所のすじむかいに小さい射的場があって、その店の奥で娘さんが顔を赤くして笑っている。ツネちゃんという娘だ。はたちくらいで、母親は無く、父親は療養所の小使いをしている。大柄な色の白い子で、のんきそうにいつも笑って、この東北の女みたいに意地悪く、男にへんに警戒するような様子もなく、伊豆の女はたいていそうらしいけれど、やっぱり、南国の女はいいね、いや、それは余談だが、とにかくツネちゃんは、療養所の兵隊たちの人気者で、その頃、関西弁の若い色男の兵隊がツネちゃんをどうしたのこうしたのという評判があって、僕もさすがにムシャクシャしていた。いや、君のようにそう言ってしまえばおしまいだけど、べつに僕はその時ツネちゃんの事を考えて、日でり雨を浴びて門の傍に
「ツネちゃん、疎開しないのか。」
「あなたたちと一緒よ。死んだって焼けたって、かまやしないじゃないの。」
「すごいものだね。」
と僕は言うより他は無かった。こりゃてっきり、ツネちゃんもあの関西弁と出来ちゃった、やぶれかぶれの大情熱だと僕は内心ひそかに断定を下し、妙に
「
その射的場で、一ばんむずかしいのは、この雀撃ちという事になっている。ブリキ細工の雀が時計の振子のように左右に動いているのを、小さい
ツネちゃんが箱のねじを巻くと、雀は、カッタンカッタンと左右に動きはじめる。僕はねらいをつけた。引金をひく。
カッタンカッタン。
当らないのだ。
「どうしたの?」とツネちゃんは、僕がたいてい最初の一発でしとめるのを知っているので、不審そうな顔をしてそう言う。
「どいてくれ、お前が目ざわりでいけないのだ。」と僕は
事実、どうにも目ざわりだったのだ。ツネちゃんは僕たちが射撃をはじめると、たいてい標的のあたりにうろうろしていて、弾を拾ったり、標的の位置を直したりするのだが、いつもはそんな目ざわりなんて思った事は無かった。しかしその時は、雀の標的のすぐ傍に立って笑っているツネちゃんが、ひどく目ざわりで危なかしくていけなかった。
「どけ、どけ。」と僕は無理に笑って、重ねて言った。
「はい、はい。」
ツネちゃんは笑いながら一尺ばかりわきへ寄る。
僕はねらいをつける。引金をひく。ブスと発射。
カッタンカッタン。
当らないのだ。
「どうしたの?」
とまた言う。
僕は、へんに熱くなって来た。黙って三発目の弾をこめてねらう。ブスと発射。
カッタンカッタン。
当らない。
「どうしたの?」
さらに四発目。当らない。
「ほんとうに、どうしたの?」と言って、ツネちゃんはしゃがんだ。
僕は答えず五発目の弾をこめる。しゃがんでいるツネちゃんのモンペイの丸い
いきなりブスとその膝を撃った。
「あ。」と言って、前に伏した。それからすぐに顔を挙げて、
「雀じゃないわよ。」と言った。
僕はそれを聞いて、全身に冷水をあびせられたような気がして立ちすくんだ。悪かった悪かった、悪かった、悪かった、千べん言っても追っつかないような気がした。雀じゃないわよ、という無邪気な一言が、どのような烈しい抗議よりも鋭く痛くこたえた。ツネちゃんは顔をしかめ、しゃがんだまま膝小僧をおさえ、うむと
「ごめんごめん、ごめん。どうした?」
どうしたもこうしたも無い。鉛の弾が膝がしらに当って、よほどの
「療養所で手当をしてもらおう。」と言った僕の声は
ツネちゃんは歩けない様子であった。僕は自分の左脇にかかえるようにしてツネちゃんを療養所に連れ込み、医務室へ行った。出血の多い割に、傷はわずかなものだった。医者は膝頭に突きささっている鉛の弾を簡単にピンセットで
「やあ、どうも。」と言った。僕は、自分が本当に悪いと思っていると
その時の父親の眼つきを、僕は忘れる事が出来ない。ふだんは気の弱そうな
ツネちゃんの怪我はすぐ治って、この事件は、べつだん療養所の問題になる事もなく、まあ二三の仲間にひやかされたくらいの事ですんだのであるが、しかし、僕の思想は、その日の出来事で一変せられたと言ってよい。僕はその日から、なんとしても、もう戦争はいやになった。人の皮膚に少しでも傷をつけるのがいやになった。人間は雀じゃないんだ。そうして、わが子を傷つけられた親の、あの怒りの眼つき。戦争は、君、たしかに悪いものだ。
僕はべつにサジストではない。その傾向は僕には無かった。しかし、あの日に、人を傷つけた。それはきっと、戦地の
慶四郎君の告白の終りかけた時、細君がお
「ツネちゃんじゃないか。」
その細君は、津軽
「馬鹿、何を言ってやがる。足か。きのう木炭の配給を取りに一里も歩いて足に豆が出来たんだとか言っている。」
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