記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月27日

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5月27日の太宰治

  1944年(昭和19年)5月27日。
 太宰治 34歳。

 五月二十七日、バスで十一時に小泊に着いた太宰治は、越野家に行ったが、留守であった。

太宰の『津軽』旅行④:鯵ヶ沢~小泊

 今日は、5月24日に紹介した、太宰の津軽執筆のための故郷・津軽旅行の様子を紹介する、第4回目。津軽で、”クライマックス”の場面が、いよいよやって来ます。

 前回は、1944年(昭和19年)5月25日、深浦の秋田屋旅館に宿泊し、兄たちや津島家の偉大さを感じたところまでを紹介しました。今回はその続き、5月26日から28日までの3日間の行程を追っていきます。

 

 

5月26日

 

  深浦の秋田屋旅館で朝ごはんを済ませながら、「自分の兄たちの勢力の範囲」を知った太宰は、ぼんやりとしながら汽車に乗り、鰺ヶ沢(あじがさわ)を目指します。

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 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を(にぎ)わしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少いような具合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。

 

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鰺ヶ沢町 1945年(昭和20年)頃。

 

 鰺ヶ沢というからには、きっと昔の或る時期に、見事な(あじ)がたくさんとれたところかとも思われるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読者もご存じの事と思うが、鰰、または鱩などという字を書いて、(うろこ)の無い五、六寸くらいのさかなで、まあ、海の(あゆ)とでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。

 

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 東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油(うすじょうゆ)で煮て、片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたいらげる人は決して珍しくない。ハタハタの会などがあって、一ばん多く食べた人には商品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知らないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのだろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたのかも知れない。いずれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるという事には間違いない。私は、そのハタハタに依って、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであった。

 この日は、ひどく天気の良い日で、太宰は日差しを避け、木造と同じ「コモヒ」を歩きますが、「 木造町のような涼しさ」が無く、「へんに息つまるような気持」がしたそうです。

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■木造の「コモヒ」 「冬、雪が深く積った時に、家と家との連絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。」

 ちょうどお昼頃だったため、「やすんで行きせえ」と声を掛けられたそば屋に入り、「焼ざかなが二皿」付いた四十銭のそばを(すす)りました。「おそばのおつゆも、まずくなかった」そうです。

 太宰は、鰺ヶ沢をあとにし、五能線に乗って五所川原まで戻ります。

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 五所川原に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来(ききょらい)」「故郷」など一聯(いちれん)の作品によく書いて置いた(はず)であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈(ふしだら)の後始末を、少しもいやな顔をせず引き受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病気をなさって、それから、こんな()せたのだそうである。

 

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中畑慶吉(なかはたけいきち)夫妻と娘・中畑けい

 

 「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう」
と、それでも嬉しそうに、私の乞食(こじき)にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな」と言って、自分で立って箪笥(たんす)から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカ(ちょう)へ行きたいと思ってるんだけど」
「あ、それはいい。行ってらっしゃい。それ、けい子、御案内」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早な性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。
  (中略)
 中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか」
 すぐそこだという。
「それじゃ、連れてって」
 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中ばかりにいて、外へ出るのがおっかなくて、外出の時には目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じ様に、長い橋だ。

 

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■乾橋と岩木山 1929年(昭和4年)頃、太宰18歳頃の様子。

 

「いぬいばし、と言ったかしら」
「ええ、そう」
「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の乾だったかな?」
「さあ、そうでしょう」笑っている。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡ってみよう」
 私は片手で欄干を()でながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎(かげろう)がのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を()めながら、白く光って流れている。
  (中略)
「あした小泊(こどまり)へ行って」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言った。
「たけに逢おうと思っているんだ」
「たけ。あの、小説に出て来るたけですか」
「うん。そう」
「よろこぶでしょうねえ」
「どうだか。逢えるといいけど」
 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。
  (中略)
 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってからふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。

 

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■叔母・キヱ

 

 三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでもその折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけはへんによそよそしくしているので、私にはひどく(うら)めしかった。それっきり、たけと逢っていない。(中略)こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。(中略)きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。

 「叔母の自宅」とは、 現在、五所川原市大町501ー15にある「津島歯科」のことです。ここには、2度の五所川原大火をくぐり抜け、当時から現存する蔵が残っています。太宰は、戦時中に金木へ疎開していた時も叔母の家を訪れ、この蔵で、従姉(いとこ)のリエや文学好きの若い人と朝まで酒を飲み、語っていたといいます。
 この蔵は、2011年(平成23年)に、区画整理のために一度解体されましたが、2014年(平成26年)8月、解体部材を元に再築され、太宰治思ひ出』の蔵」として公開されています。
 この蔵や、太宰と叔母・キヱのエピソードについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。

 けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの附添(つきそい)に行っているというのである。
「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知っていて、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ」と従姉(いとこ)が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を()がせているのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます」
「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。
「たけに」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません」従姉は、私がたけを、どんなにいままで(した)っていたか知っているようであった。
「でも、逢えるかどうか」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野(こしの)たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。
「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いてましたけど」とけいちゃんは立って、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように」(中略)一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を()かした。

 この日の夜は、従姉・キヱの夫・津島季四郎(すえしろう)と痛飲しました。

 

 

5月27日

 

  翌朝、太宰はリエに起こされ、大急ぎで朝ご飯を食べて停車場へ向かい、何とか一番のバスに間に合います。

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 きょうもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧(もうろう)としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲み過ぎたのである。脂汗(あぶらあせ)が、じっとりと額に()いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野(あしの)公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園という公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣(くるめがすり)の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に(くわ)えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと(はさみ)を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。

  芦野公園には、1964年(昭和39年)に、太宰の親友・阿部合成(あべごうせい)が制作した文学碑が建っています。

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■芦野公園の太宰治文学碑 2011年、著者撮影。

 太宰と阿部にまつわるエピソードや、この文学碑建立に寄せて阿部が記した文章は、3月6日の記事で紹介しています。

 また、金木公園には、2009年(平成21年)6月19日、太宰の生誕100年を記念して建立された太宰の銅像もあります。銅像は、生家である斜陽館の方向を向いています。

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■芦野公園の太宰治銅像 2011年、著者撮影。

 太宰は、津軽鉄道の終点である中里(なかさと)まで汽車で行き、バスに乗り換えて、小泊を目指します。バスはかなり混んでいて、小泊までの2時間、太宰は立ちっ放しでした。「中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地」だったそうです。

 お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。

 

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■小泊漁港

 

「越野たけ、という人を知りませんか」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので」
「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります」
「いますか。どこにいます。家はどの辺です」
 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。

 

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■越野金物店

 

 間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を(ぬぐ)った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と読んでみたが、もとより返事のある(はず)は無かった。溜息(ためいき)をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先をご存じないかと尋ねた。そこの()せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、
「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも」
 すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃(たんぼ)に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ」
「そうですか。ありがとう」
 教えられたとおりに行くと、なるほど田圃(たんぼ)があって、その畦道(あぜみち)を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、呆然(ぼうぜん)とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま眼の前で行われているのだ。

 

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■1962年(昭和37年)の頃の小泊の運動会の様子 校庭を囲むように立ち並んでいるのが、掛小屋。

 

 まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑っているのである。(中略)海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽(かぐら)が催されていたというようなお伽噺(とぎばなし)の主人公になったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい(ほっ)ぺたの赤いひとであった。右か、左の眼蓋(まぶた)の上に、小さいほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。

 

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 逢えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しようが無いのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
金物屋の越野」青年は考えて、「あ、向うのあのへんの小屋にいたような気がするな」
「そうですか。あの辺ですか?」
「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん」
(中略)縁が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上がった。また畦道(あぜみち)を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんてどうでもいいような、腹立たしい気持になりやしないだろうか。私は、いまこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。

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 太宰は、バスの発着所に向かいます。13時30分の中里行きのバスが、この日の最終便でした。バスが出るまでは、まだ30分ほどあります。

 少しおなかもすいて来ている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入(はい)って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上がり、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生(こんじょう)のいとま()いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。

 

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 天のたすけ! と勇気百倍、グヮラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあけ、
「ごめん下さい、ごめん下さい」
「はい」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です」と名乗った。
 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑(けいべつ)されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。
「ああ、よかった」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」
「そう」少女も私に対しては毫末(ごうまつ)の警戒も含羞(がんしゅう)もなく、落ちついて首肯(うなず)き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに逢える。もう何が何でもこの子に(すが)って、離れなきゃいいのだ。
「ずいぶん運動場を捜し廻ったんだが、見つからなかった」
「そう」と言ってかすかに首肯(うなず)き、おなかをおさえた。
「まだ痛いか」
「すこし」と言った。
「薬を飲んだか」
 黙って首肯(うなず)く。
「ひどく痛いか」
 笑ってかぶりを振った。
「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか」
「うん」と大きく首肯(うなず)いた。

  この「水兵服を着た女の子」は、 たけの五女・柏崎節
 節は、太宰を見た印象を「戦争のころの身なりで変な人だと、あまりいい感じを受けなかった」と回想しています。そして、運動会の途中で自宅に戻った理由について、「私、走るのがおそいので、仮病つかって、家へ薬をとりに行くといって帰ったんです」と話しており、実際は腹痛ではなかったそうです。

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■「太宰とタケの再開/案内した少女逝く」 2018年(平成30年)10月1日付「東奥日報

「運動会で走ったか」
「走った」
「賞品をもらったか」
「もらわない」
 おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道(あぜみち)をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、
「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。

 

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■小説「津軽」の像 この像がある「小説『津軽』の像記念館」は、太宰とたけが再会した校庭を見下ろす丘の上に建っている。2018年、著者撮影。

 

 たけの(ほお)は、やっぱり赤くて、そうして右の眼蓋(まぶた)の上には、小さい罌粟粒(けしつぶ)ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思いでの中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。(中略)私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動場を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。

 

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■現在の「太宰とたけが再会した校庭」 2018年、著者撮影。


 たけは、ふと気がついたようにして、
「何か、たべないか」と私に言った。
「要らない」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。
(もち)があるよ」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食いたくないんだ」
 たけは軽く首肯(うなず)いてそれ以上すすめようともせず、
「餅のほうでないんだものな」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。
 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上がって、
竜神様の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。
「ああ、行こう」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の(つる)も、這い拡がっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山も登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、(せき)を切ったみたいに能弁になった。

 

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■たけと竜神

 

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙(ひとさじ)ずつ養わせて、手かずもかかったが()ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。
「男? 女?」
「女だ」
「いくつ?」
 次から次へと矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
 さて古聖人の獲麟(かくりん)を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

  こうして、小説津軽は幕を閉じます。
 太宰はこの日、たけの家に宿泊しましたが、節は、この時の様子を「一合瓶の酒を飲みながら、小さい頃のことをいろいろ話し合ってとても楽しそうでした」と回想しています。

 さて、太宰とたけ、30年越しの感動の再会シーンが津軽のクライマックスになっているのですが、実はこれには、裏話があります。このシーンの舞台裏について、相馬正一『評伝 太宰治 第三部』から、かいつまんで紹介します。

 節に案内され、運動会をしている掛小屋に入った時ですが、実はこの時、太宰は1人ではなく、小泊村にある春洞寺(しゅんとうじ)の住職・坂本芳英と一緒だったそうです。坂本は、太宰の弟・礼治と青森中学校の同級生で、太宰とも旧知の間柄でした。坂本は、太宰とたけの古い繋がりについて知らなかったため、掛小屋の中で持参した配給酒をふるまいながら、運動会やたけをそっちのけで、2人で思い出話に花を咲かせていたそうです。
 一方のたけも、「ヤマゲンの修ちゃ」が、何のためにここまで訪ねてきたのか見当がつかず、春洞寺の和尚が相手をしてくれているのでホッとして、自分の子供の出場する運動会の方に心を奪われていたといいます。

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■たけと坂本芳英

 竜神様の場面でも、太宰はたけと一言も言葉を交わしていなかったそうです。
 太宰が坂本と、酒を飲みながら話に興じている時、たけは近所の主婦から竜神様の参詣に誘われます。竜神様は漁師の守護神ですが、村から少し離れていて、普段なかなかお参りできないため、こういう機会を利用して訪れたそうです。
 たけは、太宰に「ちょっと裏山の竜神様まで参詣に行ってくる」と耳打ちすると、太宰も一緒に行くと言って掛小屋の外に出ました。坂本とは、ここで別れます。
 竜神様への同行者は10人くらいで、いずれもたけの近所の主婦や老婆。たけは一行と語らいながら、時々後ろを振り返ると、太宰は独り離れて着いて来て、竜神様の境内でも、桜の花をむしりながら、みんなが参詣を済ますのを待っていたそうです。

 そして、その夜、夕食後にたけと2人きりになった太宰は、真剣な表情で次のように(たず)ねたそうです。

 ()、文治(長兄)さんと本当の兄弟ダガ?
 ()、本当は五所川原のガッチャ(叔母・キヱ)の子でネノガ?

  たけは、太宰が叔母の手で育てられるに至った経緯を詳しく説明し、「育デダのはガッチャだども、産んだのはオガサ(母・夕子(たね))だ。文治さんとは、血の繋がった実の兄弟だ」とはっきり言っても、()に落ちないような顔をしていたそうです。
 たけも、津島家に奉公に来たばかりの頃、太宰の母親はキヱだと思っていたと言っていますが、太宰の中にも大きくわだかまりが残り、小泊を訪れたのは、たけに逢いたいというだけではなく、「自らの出自を再確認」したいという思いもあったのかもしれません。

 

 

5月28日

 

 太宰は下前(隣の部落)に行きたいと言ったが、夜半から激しい雨が降り、土砂崩れの恐れがあったため、予定を変更し、朝、たけと小泊港まで出掛けたそうです。
 その後、午前中のうちにバスに乗って小泊を離れ、蟹田町の「N君」こと中村貞次郎(なかむらさだじろう)の家へと戻りました。

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●たけが太宰の幼少期を回想した『私の背中で』は、5月3日の記事で紹介しています。

 太宰の『津軽』旅行⑤へ続く!

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
相馬正一『評伝 太宰治』(筑摩書房、1985年)
・市川渓二『太宰を支えた女性たち』(北の街社、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治検定実行委員会テキスト編集部会 編集『太宰治検定・公式テキスト 旅をしようよ!「津軽」』(NPO法人 おおまち第2集客施設整備推進協議会、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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