記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月10日

f:id:shige97:20191205224501j:image

10月10日の太宰治

  1925年(大正14年)10月10日。
 太宰治 16歳。

 長兄文治が金木町長に就任した。

太宰の初恋『思い出』の「みよ」

 1925年(大正14年)10月10日、太宰の長兄・津島文治が金木町長に就任し、以後、2年間務めました。文治27歳、太宰16歳の時です。この2年後の1927年(昭和2年)、文治は青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務めました。

f:id:shige97:20200608074837j:plain
津島文治

 文治が金木町長に就任した頃、太宰の小説思い出に登場する「みよ」のモデルになった、宮越トキ(当時14歳)が、行儀見習いを兼ねて、文治夫妻の小間使いとして、津島家に住み込みをはじめました。
 トキは、金木町から約10キロほど北に位置する内潟村尾別(おつべつ)(現在の中里町)の出身。実家は、トキの出身校である尾別(おつべつ)尋常小学校(内潟村大字尾別字玉ノ井44番地)のすぐ隣で、文具から雑貨などを商う店を営んでおり、農家としても村の上位にあったといいます。
 宮越家は、加賀国宮の腰(宮ノ越)の出身で、一門の宗本家は源兵衛の家系から出ていて、1891年(明治24年)4月の北津軽郡「大地主名簿第一回の選」にも名を連ね、村内随一、郡下でも津島家に次ぐ、多額納税の大地主でした。太宰の曾々祖父・宗助(永太郎改め)の姉が尾別(おつべつ)宮越与六に嫁いでいるため、トキの住み込みは、その縁と思われます。

 当時の津島家には、北川トキという同名の女中がいたため、「宮越トキ」の姓の一字をとって「みや」「みやこ」と呼ばれました。丸顔で目の大きい清楚な雰囲気のトキは、女中仲間でも特に目立つ存在だったといいます。

 思い出の中に、

 私がそのとしの夏休みに故郷へ帰ったら、浴衣に赤い帯をしめたあたらしい小柄な小間使が、乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言った。

という場面がありますが、これが「私」(太宰)と「みよ」の出会いでした。

 思い出には、「私」が寝しなに煙草を吸うことを知ったみよが、ある晩、床をのべてから枕もとにきちんと煙草盆を置いたため、「私」がみよに、煙草はかくれてのんでいるのだから煙草盆など置くなと言いつけ、みよがふくれっ面をした、というエピソードも書かれています。みよには、主人と使用人という観念がなく、自分の親切が通らなかったことへの不満が先立ったものと思われます。

 当時、青森県立青森中学校3年生だった太宰は、トキが住み込むようになってから、長期の休みなどで実家に帰ると、すぐに「みやこはいないか」と呼びつけ、勉強の間も側に居させるようなことがあったといいます。トキも、いつとはなしに、秀才といわれる太宰に、特別の関心を示すようになっていきました。太宰は、思い出の中で、「赤い(いと)と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。」と書いています。

 翌1926年(大正15年)秋頃。週末を利用して帰省中だった太宰は、トキに、一緒に家出し、東京に出て生活しないか、と相談を持ち掛けます。この時の様子を、太宰の弟子・小野才八郎はトキから次のように聞いたと太宰治語録に記しています。

「あのさあ、わたしあのおんちゃまに口説かれたことがあるの。わたしはまだ子供で何も知らなかったのだけんど、一緒に逃げて東京へ行かないかって」

 私はまさかとは思いながらも、それでどんな返事をしたかと聞くと、
「そんな恐ろしいことは出来ないって言ったんだけど」

 この後、トキは、文治へ「奉公を止めたい」と訴えます。事情を知っていた文治の理解もあって、トキの訴えは認められ、太宰が冬休みで津島家に帰省する前に、トキは津島家を去りました。

 こうして、太宰の初恋は、幕を下ろしたのでした。

 【了】

********************
【参考文献】
・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】