記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月9日

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10月9日の太宰治

  1936年(昭和11年)10月9日。
 太宰治 27歳。

 小舘善四郎(こだてぜんしろう)が、手首の静脈を切って鰭崎潤(ひれざきじゅん)宅に駆け込んだ。

小舘善四郎(こだてぜんしろう)の自殺未遂

 1936年(昭和11年)10月10日頃、太宰にとって5歳下の義弟で、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)在学中の小舘善四郎(こだてぜんしろう)が、東京府下小金井村小金井新田464番地にある、帝国美術学校の同期・鰭崎潤(ひれざきじゅん)宅付近の林の中で、手首の静脈を切って自殺未遂事件を起こし、鰭崎宅に駆け込みました。
 小舘は、鰭崎の兄(医者)の紹介で、東京市杉並区阿佐ヶ谷4丁目900番地の篠原病院に運ばれ、入院することになります。ここは以前、前年の1935年(昭和10年)4月に、太宰が盲腸炎で入院した病院でした。

 また、鰭崎は、太宰と小舘の妹・小舘礼子にも連絡をします。当時、礼子は東京市麻布区富士見町218番地のテーラー・システム上野陽一事務所に、住み込みで見習奉公をしていました。上野陽一(1883~1957)は、経営学者、産業心理学者で、産業能率大学創始者です。

 連絡を受けた太宰は、翌日、妻・小山初代とともに、船橋から篠原病院に駆けつけ、小舘の無謀な自殺行為をたしなめました。この時、太宰は、小舘の自殺未遂を、しきりに「理由が解らない」と言っていたそうです。小舘の妹・礼子は、10月14日頃まで、通いで付添い看護をしました。

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■太宰と小舘善四郎

 小舘が入院してから2、3日後、太宰もパビナール中毒療養のため、東京武蔵野病院に入院することになります。
 入院中の太宰は、病院側から面会謝絶を申し渡されており、この面会謝絶が解除されたのは、入院から1ヶ月以上経った11月8日でした。初代は太宰の入院当初、毎日のように武蔵野病院へ出掛けて行っては、受付で断られ、気が抜けたように(しお)れて帰って来たそうです。
 太宰が入院して間もなく、東京での太宰の面倒を見ていた北芳四郎(きたよししろう)の配慮で船橋の住居は引き払われ、初代は井伏鱒二宅に滞在しました。武蔵野病院から井伏宅へ帰る途中に篠原病院があったため、初代は小舘のところに立ち寄ることもあったそうです。

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■太宰と小山初代

 【了】

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【参考文献】
相馬正一『評伝 太宰治 第二部』(筑摩書房、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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