記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月12日

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8月12日の太宰治

  1932年(昭和7年)8月12日。
 太宰治 23歳。

 中断していた創作に専念して、「思い出」を書きはじめた。

創作活動を再開、静浦村での日々

 1932年(昭和7年)7月31日、左翼運動から離脱した直後の太宰は、静養と執筆のため、北芳四郎(きたよししろう)(1891~1975)の紹介で、最初の妻・小山初代とともに静岡県駿東郡(すんとうぐん)静浦村志下(しげ)298番地、当地の酒造「坂部酒店」店主の坂部啓次郎方に行き、坂部家の斡旋で、北隣りの静浦村志下296番地の田中房二方2階の六畳を間借りして、約1ヶ月滞在しました。ここで、中断していた創作に専念し、自身の幼年及び少年時代の告白を綴った思い出を書きはじめました。

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■坂部家にて、太宰と初代 沼津に近い、静岡県静浦村の坂部家(太宰の世話人・北芳四郎の兄嫁の実家)に滞在し、本格的な創作活動を開始した。

 北は、品川区上大崎で洋服仕立業を営む、警視庁出入りの御用商人で、東京における太宰の実生活上の世話人。太宰の父・津島源右衛門が、衆議院議員在任中に、早稲田大学在学中の長兄・文治の学生服を北に新調させたことから、津島家と北との付き合いがはじまりました。

 太宰は、静浦村への滞在をはじめた直後、1932年(昭和7年)8月2日付で、初代の母・きみに宛てて手紙を書いています。

  静岡県沼津市外静浦村志下二九八
   坂部啓次郎方より
  青森市濱町二丁目 野澤たま方
   小山きみ宛

 母上様
 しばらく御無沙汰して了いました。お許し下さい。昨日から表記の所へ来ています。初代と二人で八月一杯ここでからだをきたえるつもりです。今迄色々と心配をかけましたが、もう大丈夫です。七月の半頃に私ひとり青森へ行って、あの事件を何事もなくすまして来ました。もともと私には関係の薄いことですから別にとがめだてもありませんでした。学校の方も九月から又行くことになりました。うちからは送金がへらされました。今迄百二十円だったのが、こんどから九十円になりました。そのうち十円は貯金するのだそうですから、結局八十円で暮さねばなりません。よほど気を附けねばいけないと存じています。こちらへ来てからは、夜もよく眠れるようになりましたし、からだ工合もよいようです。初代もうれしがっています。
 そちらでは皆様達者ですか。叔父さんも元気でいます。誠一君も達者で仕事に精出しています。時々私たちの所へ遊びに来ていました。
 八月すぎると又東京へ帰って、新しく家を借ります。その時又お知らせします。
 婆ちゃにもよろしく。
 野澤のおどさにもよろしく申して下さい。
 おからだ御達者に。
          修 治

 「あの事件」とは、左翼運動からの離脱のこと。この経緯については、6月28日の記事で詳しく紹介しました。

 月々の仕送り額を減らされたことを嘆く太宰ですが、現在の貨幣価値に換算すると、もともとの120円は約25~26万円、減額後の90円は約19~19万4,000円、貯金額の10円は約2万円に相当します。さらに、この時の太宰は学生であることを考えると、決して「よほど気を附けねばいけない」金額ではないようにも思うのですが。

 太宰が滞在した静浦村は、気候温暖、風光明媚で、夏には避暑や海水浴のために訪れる人が多かったそうです。
 滞在中の太宰は、啓次郎とよりも、その弟・坂部武郎(当時23歳)と親しくしていました。啓次郎の叔母が北に嫁いでいた縁で、武郎は北家に寄宿しており、北家を訪れる太宰とも親しくなっていたためでした。武郎は、太宰の小説(アルト)ハイデルベルヒに登場する「佐吉さん」のモデルでもあります。
 武郎によると、滞在中の太宰と一緒に千本浜の海岸で泳いだり、近所の俳句好きの青年達を集めて俳句の話に興じたり、小説の草稿を読んで聞かせたりしていたといいます。

 さて、太宰は静浦村に滞在中、義弟・小舘善四郎に2通のハガキも送っています。

 1通目は、8月9日付です。

  静岡県 沼津市外静浦村志下二九八
   坂部啓次郎方より
  青森市浪打六二〇
   小舘善四郎宛

 前略
 電報拝見してすぐに谷の方へ通知して置きました。母上様を始め皆様のありがたい御理解を以てあなたも望む所へ自由に下宿出来るようになったのですから、これからは尚一層勉強なさるように。之は僕からの希望です。
 谷の住所は東京市日本橋区通二丁目五ノ七谷鎭次郎。芝の方はハッキリ判りません。今問い合せています。判り次第お知らせします。

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■太宰と小舘善四郎

 続く2通目は、8月12日付です。

  静岡県沼津市外静浦村志下二九八
   坂部啓次郎方より
  青森市浪打六二〇
   小舘善四郎宛

 善四郎さん
 その後どうしています。私達は退くつしています。一昨晩近所の俳句好きの青年たちと俳句に就いて語り合いました。
 谷でもよろこんでいます。
 谷から芝の住所知らせて来ました。芝区白金三光町二七六高木気付松井周三で行きます。
 いつ頃御上京ですか、高谷君も芝へ来ますか、その辺御知らせ下さい。

 太宰は、5歳年下の小舘を弟のように可愛がりました。小舘は、1932年(昭和7年)に帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)進学のために上京しますが、そのことを心配しているようです。
 太宰が小舘に伝えている「芝区白金三光町二七六」は、静浦村から帰京した際に住む予定の住所です。

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■芝区白金三光町の住居 太宰が、1932年(昭和7年)9月から借りて住んだこの住居は、大鳥圭介(幕末陸軍奉行、男爵)の旧邸だった。

 太宰は、静浦村から芝区白金三の住居へ移っても思い出を書き続け、翌1933年(昭和8年)5月頃に脱稿しています。ここ芝区白金三の住居では、思い出のほかに、魚服記も執筆されました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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