10月1日の太宰治。
1930年(昭和5年)10月1日。
太宰治 21歳。
小舘保、葛西信造とともに、首尾よく赤羽駅に初代を迎えた。
初代、赤羽で降車し、太宰と再会
1930年(昭和5年)9月、東京帝国大学文学部仏文科に入学して5ヶ月が経った太宰は、小山初代に、詳細な指示のもと、「上京せよ」という手紙を送ります。初代は、太宰からの指示を着々と実行に移し、同年9月30日、太宰の待つ東京を目指し、夜行列車で青森駅を発ちました。この時の経緯については、9月17日の記事で紹介しました。
初代の上京に関する、太宰の指示には、「『玉家』では、初代が出奔したことにすぐ気付き、東京に電報を打って、上野駅で待ち受けさせるに違いないから、一つ手前の赤羽駅で下車すること」というものもありました。初代は、料亭置屋「玉家」のお抱え芸妓でした。
初代が青森駅を発った翌10月1日、思惑通り、小舘保(小舘善四郎の次兄)、葛西信造とともに、太宰は首尾よく赤羽駅で初代を迎えます。その日は、夜更けまで、ともに街なかで時を過ごし、深夜、葛西と小舘が住んでいた借家に初代を連れていき、そこで初代を
この初代の出奔・上京には、小舘、葛西のほか、小泉静治、平岡敏男なども協力し、初代を匿うための借間捜しや世帯道具を買い集める手伝いをしたそうです。
■東京帝国大学仏文科1年生のとき 左より中村貞次郎、太宰、葛西信造。
初代の失踪を知った「玉家」の女将・野沢たまは、すぐさま東京の知人に連絡し、初代の乗った列車を上野駅で待ち受けさせましたが、初代を発見することはできませんでした。初代は、太宰の指示に従い、手前の赤羽駅で降車しているので、当然なのですが、完全に太宰の計算通りでした。
数日後、太宰の長兄・津島文治から「玉家」の野沢謙三(たまの息子)に電話があり、文治と野沢は、青森市寺町(現在の本町)の呉服商・豊田太左衛門方(津島家の縁戚。県立青森中学校時代の太宰が下宿していた)で対談しました。
■豊田家跡 2020年撮影。
文治の依頼を受けて野沢が上京。野沢は、太宰と初代に会って話をし、その時の様子を文治に報告しました。この件に関して、同年11月9日、上京した文治と太宰との間で、話し合いが行われることになります。
また、同年10月1日付で発行された、同人誌「座標」十月号の編集後記には、
今月は大藤君は病気のため『学生郡』を休んだ。来月は確かに書くつもり。
とあります。
「大藤君」とは、大藤熊太のことで、太宰が『学生郡』を執筆する際に用いていたペンネームです。太宰が、この月の連載を休んでいることからも、初代の上京に力を注いでいたことが伺えます。
■太宰と初代
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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