記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月28日

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6月28日の太宰治

    1932年(昭和7年)6月28日。
 太宰治 23歳。

 六月下旬、留守中に刑事が二人訪れ、帰宅後すぐ引越しの話となり、翌日、小山誠一も手伝って転居した。

太宰の逃避行とその終焉

 太宰は、内縁の妻・小山初代との生活を送りながら、共産党のシンパ活動(左翼運動)に参加していました。太宰が左翼運動をはじめることになったキッカケや、この頃の様子については、1月9日、2月8日の記事で詳しく紹介しています。

 さて、1932年(昭和7年)6月下旬の少し前、5月17日の出来事から紹介します。

 築地小劇場で照明係をしていた中村貞次郎が中野署に、平岡敏男が淀橋署に、それぞれ取り調べのために呼び出されました。中村は、太宰の小説津軽「N君」として登場する人物です。

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■『津軽』の「N君」こと中村貞次郎

 中村は、「左翼劇場関係でにらまれ」て、5月20日までの4日間、留置所に入れられました。平岡によれば、青森署から照会があったと言われ、津島修治(太宰の本名)のことを聞かれたそうです。

 6月上旬になると、金木の生家にも連日のように特別高等警察(略称:特高警察、特高)が訪問するようになりました。

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 執拗な尋問を受け、太宰が生活費の一部を共産党活動に資金援助しているらしいこと、労働組合全国協議会と青森一般労働組合との連絡係を務めていること、西神田署に留置されたことなどが、長兄・津島文治の耳に入りました。怒った文治は、太宰と初代の結婚を認める代わりに結んだ「覚」の禁止項目「社会主義運動ニ参加シ或ハ社会主義者又ハ社会主義運動ヘ金銭或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ」に該当すると判断し、即刻送金を停止しました。この「覚」については、1月27日の記事で詳しく紹介しています。

 そして、6月下旬。太宰の留守中に刑事2人が訪れたため、帰宅後すぐに引越しの話になり、翌日、小山誠一も手伝って引越しをしました。誠一は、初代の弟です。暗くなってからトラックを頼んできて、夜逃げ同様の引越しだったそうです。
 太宰は、小説東京八景に、「またもや警察に呼ばれそうになって、私は逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった」と書いています。

 誠一は、「八丁堀」に引越したと回想していますが、初代の叔父・吉沢祐(本名・吉沢祐五郎)は、「世を忍び、一時、夫婦で私のところに同居した。持ち込んだ世帯道具が屋上の洗濯場を(ふさ)ぎ、管理人から渋い顔をされて八丁堀へ引越した」と回想しています。
 吉沢の回想の通り、一度、家財道具を京橋区新富町3丁目 相馬アパートの吉沢方に運んで同居し、その後、「家財道具を、あちこちの友人に少しづゝ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って」、新富町から八丁堀に引越したのだと思われます。
 ちなみに、新富町と八丁堀は、「電車で二停留場位」の距離にありました。

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■初代の叔父・吉沢祐

 この頃の太宰は、共産党からの指示を受けて引越しすることもありましたが、今回の引越しは、太宰自身の意志での引越しだと思われます。
 八丁堀の部屋を借りる際、特高警察の追及を逃れるため、「北海道生まれの落合一雄」という偽名を使っていたといいます。
 太宰が八丁堀で借りた部屋は、材木屋の2階(一説に、芝区湊町2丁目の弘前出身の大工方。また一説には、京橋区内の鉄砲洲に近いAさんの2階)で、「国華ダンスホールのあった盛り場を少し離れて淋しい川岸の通り」にあったといいます。
 通りから長尺の角材等を立て掛けてある路地を曲がって、階下全部が木材置き場になっている薄暗い梯子(はしご)段を登ったところにある、ひどく天井の低い八畳間がそこだったと、小舘善四郎は回想しています。

 この頃は、訪問客も無く、初代や吉沢と、よく鉄砲洲の縁日をぶらついていたそうです。

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■太宰と初代

 太宰が、いきなり特高警察の監視網から姿を消したあと、行方が分からなくなったため、特高警察は金木の生家に協力を要請。長兄・文治は、太宰に厳しく運動離脱の誓約を迫り、「内密に青森に赴き、警察署に出頭して左翼運動からの離脱を誓約すれば、大学卒業まで送金を継続する」という条件を伝えました。

 7月中旬、太宰は単身青森へ向かい、極秘裏に青森市・豊田家の2階の一室で、母・夕子(たね)と長兄・文治と会談。文治は烈しく太宰を叱責し、夕子は涙ながらに哀願したといいます。
 その翌日、文治に伴われ、太宰は青森警察署の特高課に出頭。2日間の取り調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して釈放され、帰京しました。取り調べの結果、起訴され書類送検とされていますが、一応の形式上の手続きに過ぎなかったといわれています。

 これをきっかけに、文治からの生活費の仕送りは、月額120円から月額90円に減額されました。現在の貨幣価値に換算すると、120円は約25~26万円、90円は約19~19万4,000円に相当し、大学生への仕送りの額としては、十分過ぎる金額といえます。

 一方、共産党の側でも、「修治の住居も危くて使えなく」なったという噂が広まり、また、太宰のもとに出入りしていた人達も次々と検挙され、太宰と共産党との繋がりは、自然に絶えることになったそうです。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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