記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月29日

f:id:shige97:20191205224501j:image

11月29日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月29日。
 太宰治 21歳。

 午前八時頃、出漁しようとしていた浜上(はまじょう)の漁夫の一人に、苦悶中を発見されたが、女はすでに絶命していた。

鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)での情死事件

 1930年(昭和5年)11月28日夜半、太宰と銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給・田部(たなべ)あつみは、神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)の海岸東側突端の畳岩の上で、2人で睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)しました。

f:id:shige97:20201125090754j:image
小動崎こゆるぎがさきの海岸東側突端の畳岩

 まずは、太宰とあつみ失踪後について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中から、あつみと婚約し、同棲していた高面順三(こうめんじゅんぞう)の様子を引用します。
 同年11月25日の夜から、高面の元にあつみは戻っていませんでした。

 高面順三があつみの帰宅をまちわびていた。(中略)翌日、順三はホリウッドへあつみを迎えに出掛けた。朋輩の女給たちが帰ってゆくのに、あつみはなかなか姿を見せなかった。折よく表に出てきたドア・ボーイに訊ねたら、「きょうはお休みしたらしい」という。それを聞いて順三は愕然とした。こんなことは今までに一度も無いことであった。
 一睡もせず朝を迎えたが、とうとうあつみは帰って来ない。無断で外泊なんて考えられないことだったし、事故にでも遭ったのかと心配で、順三は居ても立ってもおられぬ思いであった。鈴村夫妻の思惑もあって、この日の午後になっても帰って来ないときは、やむを得ないから警察に家出人捜索願いを提出し、捜査を依頼することにした。二十七日、二十八日とも依然としてあつみの消息は掴めない。鈴村かよし子のどちらかが自宅に待機して警察からの連絡を待ち、順三は心当りの場所へ出向いて、それこそ必死であつみの行方を探しつづけた。

f:id:shige97:20201124001402j:image
■高面順三(22歳)

 同年11月29日の午前8時頃、畳岩の上にいた2人は、漁に出ようとしていた漁師に発見されます。

 警察から連絡がはいったのは、二十九日の午後であった。鎌倉の腰越で心中があったが、それが田部あつみらしいので至急確認のため、鎌倉署まで来てほしい、という意味の通報であった。鈴村から話を聞いた順三は、全身の血潮が音をたてて一度に退いてゆくのを感じた。
 鎌倉署へは、腰越の現場から遺留品が届けられていた。どうか他人の空似であってほしい、との順三の願いもむなしく、腕時計、櫛、財布など、あつみが日頃身につけていた持物に間違いなかった。帯だけは、鈴村の妻よし子から借りていたものなので、丁寧にたたんで風呂敷に包んであった。
 その日の朝、腰越の畳岩で発見されたとき、女性のほうは、着物の裾の上から脚と足頸(あしくび)のあたりを腰紐で結び、頭を崖下のほうに、足を海に向けて倒れていたが、両手を合掌するかたちに組み、まるで眠ってでもいるように安らかな死顔であったという。警察の係官から、あつみと心中を図った若い男は、帝大の学生で、七里ヶ浜の恵風園に収容されていて、まだ昏睡中だが、医師の診断では生命に別条ないことなどが告げられた。

f:id:shige97:20201123234821j:plain
■田部あつみ(17歳)

 漁師に発見された太宰は昏睡状態、あつみは既に絶命していました。
 太宰は1人、七里ヶ浜にある「恵風園療養所」東第一病棟第二号室に収容され、所長・中村義雄の手当てを受けます。

f:id:shige97:20201126075731j:image
■「恵風園療養所」全景 1930年(昭和5年)秋頃に撮影。

 太宰の実家・津島家では、この出来事を、鎌倉材木座に一軒家を借り、週1回、サナトリウム「額田保養院」に通って結核療養していた夫・小舘貞一を訪れて滞在中だった、貞一の妻で太宰の四姉・小舘きやうからの電話で知って驚き、同11月29日、太宰の次兄・津島英治が、午後1時30分の青森発の急行で、鎌倉に急行しました。

 田部あつみの亡骸は、検死ののち、高面順三がひとり立ち会って荼毘(だび)に付された。それからの数日、順三は何度か恵風園へ足を運んだのだが、その都度、代理だという人が出て来て面会を拒絶された。

 同年11月30日、英治が鎌倉に到着した時、あつみは、既に荼毘(だび)に付されたあとでした。

 英治が鎌倉に急行するのと多少前後して、津島家に出入りする呉服商で「津島家の彦左」といわれた中畑慶吉(なかはたけいきち)が、太宰の長兄・津島文治の依頼で鎌倉に向かいました。この時のことを、太宰治に出会った日に収録されている中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。

f:id:shige97:20200320153545j:plain
■太宰と中畑慶吉

 昭和五年の十一月でしたか、私は文治さんに呼ばれました。
「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こした。中畑君、すまんがすぐに行って、君の好きなように処理をつけちゃくれないか」
 私は文治さんから三千円(著者注:現在の貨幣価値で、約5,800,000円~5,900,000円)を預かると夜行に飛び乗り、鎌倉に急ぎました。当時、私は仕入れのため、毎月一度は東京に出ており、いつも夜行寝台を利用していましたから、どの汽車が早くて便利だかを熟知しておったのです。
 鎌倉に着いてからすぐに、私はシメ子の内縁の夫田部某に会いました。この人は大分の在の男で、やせた小柄な人物でした。おまけに神経衰弱――今でいうところの強度のノイローゼだったのです。三十前のようでした。
 この人と鎌倉警察の人と私と三人で、仮埋葬してあったシメ子の死体を確認いたしました。警察では当初、田部某が本当にシメ子の身内かどうか疑いをもっておったようですが、死体が鼻血を出したので、はじめて信用したようです。昔から”変死体は近親者と会うと鼻血を流す”といいますから。それはおびただしい量の血でした。大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました。当時、アリタドラッグとかいう店の商標に使われていた蝋人形の美女にそっくりでした。
 丸裸の上に麻の葉の襦袢が掛けてありました。芝居では八百屋お七が着るやつです。
 鎌倉では、日没になってからでないと火葬にできないということで、私は夕方になってから焼場に向いました。田部某氏は同道せず、私一人だけで行きました。

 あつみの火葬の立ち会いに関して、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中と異なる記述もありますが、続けて引用します。

 私はひとまず宿の床の間に骨を安置しました。田部氏が正式にものごとの段取りを決めてから渡してやろうと考えておったのです。
 しかし、本人は次の日やってきて、とにかく遺骨をくれと言う――警察では、いま遺骨を渡すと自殺のおそれもあるといっていたのですが――私は遺族のたっての希望だからと考え、渡してやったのです。
 ところが、警察のいうとおり、さあ、大変、今度は田部君が行方不明になってしまったのです。すぐに消防団青年団を動員して山狩りをしてもらいました……発見したのは夕方のことです。田部君は、自分の女が心中をした海辺の現場に行き、遺骨を抱いて写真におさまろうとしていた寸前に発見されたのです。私は内心、あきれてしまったことを思い出します。

 また、中畑は、津島家に出入りする洋服仕立屋であり、東京における太宰のお目付役を担っていた北芳四郎(きたよししろう)から、鎌倉に向かう途中、ある連絡を受けていました。 

f:id:shige97:20200320152500j:image
井伏鱒二と北芳四郎 この事件以後、文治から太宰への仕送りは、北や井伏宛に送られることになったという。1939年(昭和14年)1月8日、太宰と美知子の結婚式の記念写真より。

 私が太宰の後始末をつけるため、東京へ向う車中にあったとき、この北さんから電報がきました。当時共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿――戸塚の常盤館だったと思います――に置いてあって、見つかるとまずいから処分してきてくれ、というのです。
 私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いてくれるように女中頭さんにチップを渡して頼んでから鎌倉に向ったのです。太宰の年譜のほとんど全部が、私自身で秘密書類を焼き捨てたという記述をしているそうですがそれは誤りです。次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。


 太宰のこの情死事件を、太宰と婚約していた小山初代が青森で受けたのは、晴れて嫁ぐ準備に慌ただしい、上京予定の1週間前でした。
 初代は、一緒に三味線を稽古していた、阿部合成(あべごうせい)(太宰の青森中学時代の同級生)の中学時代からの恋人・小田原チヨ(のちの阿部なを)に、泣いて恨みを訴えたそうです。チヨによれば、初代は「堅気の娘とのつきあいをしたかったらしく、お稽古もいつも一緒にでかけ」ており、「「彼にプレゼントしたいから靴下の編み方を教えてくれ」といわれ、協力したこともあった」といいます。

f:id:shige97:20201122123832j:plain
■小山初代


 同年11月30日付、「東京日日新聞」は、「東大生と女給が心中」の見出しで、また、「東奥日報」は、「津島県議の令弟修治氏鎌倉で心中を図る」の見出しで、写真を掲げて報道しました。

f:id:shige97:20201126223350j:image
■1930年(昭和5年)11月30日付「東奥日報

 折しも、県議会開会中で、青森での定宿である塩谷旅館にいた文治のもとに、新聞記者が駆け付けました。

 小田原チヨは、「今朝の新聞の大きな記事の人物」が、初代の「相手の人だとはじめて知らされ」た。その「人物」の「中学時代の下宿」は、チヨの生家・魚問屋に近く、チヨはその人物の「軟派ぶりもよく知って」いた。「泣きながら訴える初代」が哀れで「義憤を感じた」チヨは、「うらみを乞われるまま下書きなどして」津島修治宛に「手紙を書かせた」そうです。

f:id:shige97:20200420094430j:image
■阿部合成と妻・阿部千代(のちの、阿部なを)

 【了】

********************
【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1980年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】