7月26日の太宰治。
1936年(昭和11年)7月26日。
太宰治 27歳。
七月二十六日付で、
中畑慶吉 に宛てた自身の近況報告
太宰がハガキを書いた
太宰のお目付け役として、上京後の太宰の面倒を見ます。鎌倉での心中未遂の後処理、処女短篇集『晩年』出版記念会の用意、パビナール中毒療養のための入院、津島美知子と結婚する際の井伏鱒二へ結婚後見人を願い出たりと、中畑が世話をした事柄は、枚挙にいとまがありません。
■太宰と中畑 太宰と美知子の結婚式にて。
それでは、1936年(昭和11年)7月26日付で、中畑に宛てて書かれたハガキを見ていきます。
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
青森県五所川原町旭町
中畑慶吉宛
拝復
先日は、バカ者、むりのお願い、お聞きとどけ下され、心で拝んで居ります。おかげ様で大繁盛、私、白足袋はいて演説しました。くわしくは、後日、拝眉の日に。豊田様、たしかに送ったとのみ思い、安心していたのです。ほかにも二、三、送ったつもりのもの、不着のお手紙あり、今月末、上京、さっそくお送り申しあげます。失礼いたしました。おついでの折、このこと、お伝え下さいまし。伊馬君の戯曲集(著者注、伊馬鵜平著『桐の木横町』のこと)も、一緒にお送り申します。ハジメさんが、伊馬君のもう一冊、別の本、持って居る筈、おひまの折に、読まれよ。ハジメさんは、その他、「鵜の物語」という友人の小説集(著者注、外村繁著『鵜の物語』のこと)、持って居る筈、知って居る人のこと書いているのだから、きっと面白いでしょう。五所川原の背景。
ハガキの冒頭に書かれているのは、太宰の処女短篇集『晩年』出版記念会のこと。
仕入れのために上京した中畑が船橋の太宰宅を訪ねると、よれよれの着物を着ていた太宰。中畑が「どうした」と尋ねると、「これ一枚きりだ」と答えるそうです。記念会までは、まだ3日ほど猶予があったため、中畑は、羽織、袴、足袋、下駄から
太宰の「『晩年』出版記念会」については、7月11日の記事で詳しく紹介しました。
「豊田様」とは、太宰が青森中学校に入学してから、卒業するまでの4年間を過ごした豊田家のことです。豊田家は、青森市寺町14番地の呉服・布団の老舗で、太宰の叔母・キヱの二度目の夫・常吉の本家です。また、豊田家の当主・豊田太左衛門(常吉の従兄にあたる)の長女・ちゑは、中畑の妻になりました。
■中畑家 左から中畑慶吉、娘・けい、妻・ちゑ
中学時代の太宰は、叔母・キヱの縁で、豊田家の二階で過ごし、毎日2キロほどの道を徒歩で通学しました。太宰は、二階の隅に、囲炉裏もある八畳間の一部屋を与えられ、初めて自分の部屋が出来たと喜んでいたそうです。
キヱからの依頼もあったのでしょうか、太左衛門は、縁戚にあたる太宰を丁重に扱い、太宰はあまり干渉を受けず、自由気ままな生活を送ることができました。通人でもあった太左衛門は、太宰をよく可愛がり、外に連れ出しては、小料理屋「おもたか」などでもてなしました。
■小料理屋「おもたか」
太宰は弘前高等学校時代、芥川龍之介の死に接し、花柳界に出入りする生活を急に始めましたが、その礎は、この頃から徐々に築かれていったのかもしれません。芥川死後の太宰は、平日は弘前で義太夫を習い、週末は制服制帽で青森へ出かけ、豊田家で角帯に着替え、小料理屋「おもたか」へ繰り出し、芸者・
■芸者・紅子(小山初代)
太宰から中畑への書簡は、『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)に16通が収められています。衣類の送付依頼、借金の申し込みなど、事務的な内容のものばかりではなく、自身の著書を送ったりもしています。
特に、美知子との再婚には、津島家が表面上不関与の態度を取ったため、太宰は中畑宛に結婚に関する状況を報告しています。中畑は、単に太宰のお目付け役というだけではなく、太宰の近況を津島家に伝える役割も担っていたのでしょう。
【了】
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【参考文献】
・「月刊 噂」六月号(噂発行所、1963年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡辺芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・『太宰治生誕110年記念展 -太宰治と弘前-』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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