記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月2日

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12月2日の太宰治

  1930年(昭和5年)12月2日。
 太宰治 21歳。

 田部(たなべ)あつみの葬儀が行われた。

田部(たなべ)あつみの葬儀と中畑の後始末

 1930年(昭和5年)11月28日、東京帝国大学1年生の太宰と、銀座のカフェー「ホリウッド」の女給・田部(たなべ)あつみは、神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)の海岸東側突端の畳岩の上で睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)します。太宰は一命をとりとめましたが、あつみは死亡しました。太宰21歳、あつみ17歳でした。
 この事件は、「東大生と女給が心中」という見出しで、新聞でも報道されました。

 同年11月30日、あつみの遺体は検死のあと、鎌倉の火葬場で荼毘(だび)に付されました。鎌倉では、日没になってからでないと火葬にできなかったそうです。

 あつみの葬儀は、同年12月2日に行われました。

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■高面順三(22歳)

 葬儀が行われたのと同日、高面は、太宰の長兄・津島文治の命を受けて、事件の後始末のために上京していた中畑慶吉(なかはたけいきち)と、鎌倉警察署で会っています。この時のことを、太宰治に出会った日に収録されている中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。

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■太宰と中畑慶吉

 私は警察署の宿直室で、偶然にも金木生れの刑事さんに立会人になってもらい、田部君(著者注:高面のこと)に「今後は一切、無関係」という意味のことがらを認めた念書を入れてもらいました。その代償として、預ってきた金から百円をやりました。

 中畑は、鎌倉警察署の宿直室で、太宰と同郷の青森県金木町出身の警部補・村田義道の立ち会いのもと、高面に100円(現在の貨幣価値に換算すると、約190,000円~200,000円相当)を渡し、いっさいを解決しました。「山口県玖珂郡米川村大字西長野茅 高面順三」の署名と捺印のある「昭和五年拾弐月弐日」付の「中畑慶吉殿」宛の誓約書には、

一金壱百円也
右ハ今般自分の内縁の妻田部シメ子に関して御恵与下され候事(たしか)に拝受仕り候
右事件に付き本籍地なる親元田部島吉に電信にて問合せ候処自分に一切任せるとの返電に依り後日該事件に対しては絶対自分責任を持ち苦情など申上る事無くて候

と書かれていました。

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■中畑宛に書かれた高面の誓約書

 津島家の人に相手にされず、修治との面会も許されなかった高面は、あつみの骨壺を胸に抱き、最後の別れに七里ヶ浜の砂浜で写真撮影をします。あつみの故郷・広島へ高面が遺骨と一緒に持ち帰ったその写真は、吹きさらしの浜辺で白布に包まれた骨箱を首から提げ、絣の着物の高面が1人、潮風に吹かれながら呆然として立ち尽くしている、見るも哀れなものだったそうです。
 あつみの遺骨は、広島県草津にあるあつみの菩提寺・京専寺に埋葬されました。墓碑には、俗名も戒名も刻まれていないそうですが、菩提寺過去帳には、「昭和五年十一月二十八日、釈妙晃信女、島吉ノ子、田部シメ子、十九歳」と書かれているそうです。「十九歳」というのは数え年で、あつみが亡くなったのは17歳で、あと5日後には18歳の誕生日を迎えるという時でした。

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■田部あつみ(17歳)

 高面はのちに、広島でも有数の小物問屋の令嬢・ハルエと結婚し、長女・康子、次女・陽子、長男・明紀の3人の子供にも恵まれます。しかし、1945年(昭和20年)8月6日の午前8時15分、広島に投下された原子爆弾によって、妻、長女、長男と共に爆死しました。次女は、学童疎開のため一緒には住んでいませんでした。


 中畑と高面との間で誓約書が交わされた翌日の朝、中畑の宿を訪れた人物がいました。再び、太宰治に出会った日に収録されている中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。

 九時頃でしたか、田部某の友人と称する三人の男が宿を訪ねてきました。用件は、「この『講談倶楽部』にも出ているとおり、俺たちの友人の女房を殺した津島という男の実家は百万長者じゃないか。三万円寄越せ」なんです。
 三人の風態はといえば、リボンのつぶれた中折帽をかぶったチンピラです。私はハッキリと言ってやりました。
「私は頼まれて来ただけなんだ。そういう交渉だったら、どうぞ国許のお兄さんと御自由におやり下さい」とね。
 連中はずい分ねばり、午後三時頃までいました。結論は、「では、大分まで納骨に行く汽車代をくれ」「ようがす」ということになりました。で、汽車代はそんなにしないが百円渡してケリをつけました。昔の雑誌は、よく附録に”全国長者番付一覧”がのっていましたが、連中はそれにのっていた津島文治さんの名前を見てユスリに来たのでしょう。

  ユスリに来たチンピラが受け取ったのは、高面が受け取った額と同じ「百円」でした。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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