11月7日の太宰治。
1929年(昭和4年)11月7日。
太宰治 20歳。
十一月頃、町の娘と郊外の原っぱで、カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えられる。
太宰、最初の心中未遂?
1929年(昭和4年)11月頃、太宰が官立弘前高等学校3年生の時。
太宰は、町の娘と郊外の原っぱで、睡眠剤カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えらえています。
■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。
太宰は、39年の生涯の中で、4度の自殺未遂を経て、5度目で愛人・山崎富栄との玉川上水で心中自殺を果たします。
【1回目】
1929年(昭和4年)12月10日。
太宰治 20歳。
下宿でカルモチンを嚥下 し、翌日夕方まで昏睡状態に。
【2回目】
1930年(昭和5年)11月28日。
太宰治 21歳。
銀座のバーホリウッドの女給・田部あつみと神奈川県鎌倉腰越町の小動崎 で心中未遂。あつみは亡くなり、太宰だけが生き残る。
最初の妻・小山初代との結婚に起因し、実家・津島家から分家除籍された直後だった。
【3回目】
1935年(昭和10年)3月16日。
太宰治 25歳。
鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂。
東京帝国大学を落第、都新聞社の採用試験を受け、失敗した直後だった。
【4回目】1937年(昭和12年)3月20日。
太宰治 27歳。
前年の1936年(昭和11年)10月、太宰がパビナール中毒療養のため、東京武蔵野病院に入院していた際、妻・初代が、太宰の義弟・小舘善四郎と過ちを犯してしまったことに起因。
群馬県谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが、失敗。
【5回目】1948年(昭和23年)6月13日。
太宰治 38歳。
普段着の軽装で愛人・山崎富栄と家出、玉川上水に入水。
死亡時刻は、6月14日午前1時頃と推定されている。
しかし、1回目の自殺未遂の直前、太宰は、町の娘と郊外の原っぱで、睡眠剤カルモチンを使った心中を図って未遂に終わった、「最初の心中未遂」を起こしていたとも言われています。
この、「最初の心中未遂」について、太宰の弘前高等学校の級友・
年譜によればこの年の自殺未遂は十一月某日と十二月十日の二度にわたって行われたことになっているが、最初の「町のメッチェンとの心中未遂」の方は誰もその相手を見ておらず、あるいは太宰が、ある実在の女を心中の相手に想定して行った「独り芝居」ではなかったかとさえ想われるのである。
その女というのはおそらく、当時、土地の有力者による落籍問題の起っていたといわれる「玉家」のお抱え芸者の紅子で、のちの太宰夫人、小山初代であろう。紅子はにわかに持ち上ったこの問題について、彼に相談し、結婚を迫ったものと思われるが、当時の太宰の身分ではどうすることもできず、返答に窮したに違いない。
「メッチェン(Mädchen)」とは、ドイツ語で、少女、娘のこと。
太宰は、1927年(昭和2年)、弘前高等学校1年生の頃から、義太夫に凝っていました。同年7月に芥川龍之介が自殺しますが、それを知ったあたりから、芸者上がりの師匠について義太夫を習い、服装に凝りはじめたといいます。
太宰は、近松門左衛門の作品にも心酔していたようで、石上の言う通り、叶わぬ恋を成就させたいと、近松の代表作『
■太宰、弘前高等学校2年。新聞雑誌部の先輩送別会 前列右から2番目が太宰。後列右から2番目が石上玄一郎。弘前市の料亭「新若松」にて。
【了】
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【参考文献】
・石上玄一郎『太宰治と私ー激浪の青春』(集英社、1986年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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