記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月16日

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3月16日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月16日。
 太宰治 25歳。

 街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で、縊死(いし)を図ったが紐が切れ、未遂に終わった。

鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂

 3月14日の記事で紹介しましたが、東京帝国大学が落第と分かった太宰は、中村地平を頼りに、都新聞社(現在の東京新聞社)への就職活動を行いますが、失敗してしまいます。

 今日は、都新聞社への就職活動が失敗だと分った後の、太宰の足取りを追ってみます。


【3月13日】
 檀一雄と都新聞社編集局に中村地平を訪ねます。就職活動への助力に対する、お礼の訪問だったのでしょうか。
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■中村地平

【3月14日】
 朝、書置きのようなものを残し、兄・津島文治からの仕送り90円(現在の貨幣価値で、約16~18万円)を日本橋の銀行に取りに行くために外出。
 東京市淀橋区柏木704番地東中野ロッヂ15号のアパートにいた小館善四郎(帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)在籍)を訪れ、来合せていたモデルの女性と3人で銀座に出てバーで飲んだ後、モデルを帰し、小館善四郎と2人で歌舞伎座、浅草で遊び、京浜道路をドライブしながら、横浜本牧に行って宿泊します。
 善四郎は、太宰の四姉・きやうが、長兄・小館貞一に嫁いだことから交友が始まった人物です。
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■小館善四郎。1935年(昭和10年)撮影。

【3月15日】
 午後一時頃、桜木町駅で小館善四郎と別れる。出札口を出た小館善四郎を構内から呼び止め、「ひょっとしたら、僕は死ぬかもしれぬ。」と言って、人混みの中に姿を消してしまいます。
 その後、太宰は単身、鎌倉へと向かいます。

【3月16日】
 鎌倉町大塔宮前の深田久彌(ふかだきゅうや)(1903~1971)・北畠八穂(きたばたけやお)(1903〜1982)夫妻宅を訪問します。
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■深田久彌。1957年(昭和32年)、北アルプス笠ヶ岳山頂にて撮影。

 深田は、石川県大聖寺町生まれの小説家・随筆家・登山家です。1929年(昭和4年)11月、小説津軽の野づら』を雑誌「新思潮」に発表し、同年、児童文学者で詩人でもある北畠八穂(きたばたけやお)と結婚します。その後、「作品」「文藝春秋」「文学クオタリイ」等に『津軽の野づら』を短篇として発表し、新進作家として活躍していました。
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北畠八穂1948年(昭和23年)撮影。

 深田久彌夫人の北畠八穂は、青森市(たばこ)町の生まれ。1920年(大正9年)、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、「主婦の友」「婦人倶楽部」に投稿して入選を果たしています。
 1922年(大正11年)、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学しましたが、脊椎カリエスを病んだため、1年半で中退し、青森に帰郷します。
 恢復(かいふく)後、1924年(大正13年)から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし、脊椎カリエス再発のため、1926年(大正15年)に退職。病気療養中、雑誌「改造」に投稿したことが契機となり、同誌編集者の深田久彌と恋に落ちました。
 1929年(昭和4年)に上京し、千葉県我孫子市東京市本所区で深田と同棲生活を送りますが、深田の父が北畠の健康状態を理由に結婚を反対したため、入籍は叶いませんでした。

 北畠の父は材木商を営んでいて、小館家に嫁いだ太宰の四姉・きやうをよく知っていました。「角帽の太宰さん」は「はにかんで、家の玄関に立っていた」と、この日の太宰のことを北畠は書いています。
 生活や文学のことを語った後、深田・北畠夫妻宅を後にし、同夜、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山で、縊死(いし)を図るも、紐が切れ、未遂に終わりました。

 太宰の留守宅では、友人数十人が何班かに分かれて、伊豆や房総や三浦半島などに出掛けて捜索しましたが、太宰は見つかりませんでした。太宰の長兄・津島文治が、この春に大学を卒業しなければ、以後いっさい送金をしない、と言って来ていたことから、「或いは生活の途を打開するための狂言ではないか」という意見も出されました。
 しかし、依然として太宰の消息が知れなかったため、同日午後11時、井伏鱒二から、杉並署に捜索願が出され、太宰の長兄・文治も、打電によって津軽から駆けつけています。

【3月17日】
 「読売新聞」に、「新進作家死の失踪?」の見出しで、同日付「国民新聞」には「芥川宗の太宰治君/突然行方(くら)ます」の見出しで、太宰の失踪が報じられました。
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 長篠康一郎は、この自殺未遂について、

 自殺未遂の三番目は、新聞社の入社試験(昭和十年三月)に失敗した太宰が、鎌倉で縊死(いし)を図ったことになっています。しかし、頸部(けいぶ)傷痕(しょうこん)から判断して縊死を企てたとは考えられず、むしろ大学を卒業できない太宰が、長兄に対しての苦肉の策であったとみられないこともありません。太宰が大学の勉学に励んでいたのも一、二年生の頃(昭和六年)だったといわれ、昭和八年以降に発表した作品もその時代に執筆していたものが多いとみられています。大学を卒業できない理由は、卒業年度における授業料未払いのためでした。長兄からの送金が大学卒業までという条件であったことを考え合わせるならば、この事件も仕送り期間の延長を図った演出のようにも考えられます。

と、分析しています。

 「友人数十人」が心配した、太宰の失踪。
 その顛末(てんまつ)については、3月18日更新の記事で紹介します。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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