記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月19日

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12月19日の太宰治

  1935年(昭和10年)12月19日。
 太宰治 26歳。

 次姉トシの長男逸郎(二十三歳、東京医学専門学校在籍)とともに、懐中五十円、「
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碧眼托鉢(へきがんたくはつ)」の旅に出て、湯河原温泉の翠明館、箱根等に遊び、風邪気味で下山した。

太宰、「碧眼托鉢(へきがんたくはつ)」の旅へ

 1935年(昭和10年)12月19日から22日まで、太宰は、次姉・トシの長男・津島逸郎とともに、「『
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碧眼托鉢(へきがんたくはつ)』の旅」
と称した旅に出ます。
 今日は、太宰がこの旅の前後に、友人知人に書いたハガキを引用しながら、太宰の「『
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碧眼托鉢(へきがんたくはつ)』の旅」
を辿ってみます。

 太宰は旅に出る直前、2通のハガキを書いています。
 1通目は、1935年(昭和10年)12月16日、友人・鰭崎潤に宛てて書いたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京府下小金井村新田四六四
   鰭崎潤宛

 拝啓
 小説を読んでくださって居る由。力づよく思いました。私、十九、二十、二十一、二十二、四日間くらい旅行してまいります。碧眼(へきがん)托鉢(たくはつ)僧のつもりです。みすぼらしい旅ですが、旅にでも出なければ、やりきれなくなりました。二十三日からは、毎日、在宅。いつでもいらっしゃい。まずは。

 碧眼(へきがん)の托鉢僧のつもり」「みすぼらしい旅」に出ると鰭崎に告げる太宰。
 碧眼(へきがん)とは、青い色をした目のことで、西洋人の目、転じて西洋人のことを意味します。
 また、托鉢(たくはつ)とは、仏教やジャイナ教を含む古代インド宗教の出家者の修業形態の1つで、信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞う(門付け)、街を歩きながら(連行)、または街の辻に立つ(辻立ち)により、信者に功徳を積ませる修業です。乞食行(こつじきぎょう)頭陀行(ずだぎょう)行乞(ぎょうこつ)ともいいます。

 旅に出る前に書いたもう1通は、同年12月17日に書いた、義弟・小舘善四郎に宛てたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区荻窪三ノ二〇二 慶山房アパート
   小舘善四郎宛

 先ず、肉親のあくことを知らぬドンランなるエゴを知れ! 逸郎に手をひかれ、懐中五十円、碧眼の僧、托鉢の旅に出ます。みすぼらしい旅です。おそくとも二十三日には、かえります。(お金がないから。)僕は、だんだん、眼をひらく。「君、自身を愛したまえ。」問題は、それから。
 千人のうち、九百九十九人の一致したる言を信ぜず、あとの、みすぼらしい、ひとりの男を信ずる。
 初代が飛島のうちに居なかったら、私、在宅と知れ。

 「懐中五十円」は、現在の貨幣価値に換算すると、約88,000~100,000円に相当します。

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■太宰と小舘善四郎


 続いて、太宰が旅の途中に書いたのが、同年12月20日付、山岸外史に宛てた絵ハガキです。

  神奈川県吉浜局発信
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 碧眼托鉢。
 ここまで来た。
 君は、「からす組三人」の中にはいらず。君は、すやすや眠っていた男であった。君は幸福だよ。

 「からす三人組」とは、山岸外史檀一雄小舘善四郎の3人のことです。
 太宰が山岸に送った絵ハガキは、「湯河原温泉 翠明館(すいめいかん)」で購入したものでしたが、太宰は、同じ年の9月26日に山岸、檀、小舘と一緒に、太宰の「はじめての原稿料」で湯河原旅行に来た際、翠明館(すいめいかん)に宿泊していました。

 太宰、山岸、檀、小舘の4人のうち、山岸、檀、小舘の3人が夜中に旅館を抜け出して近所の娼家に行き、太宰は眠っていて旅館に残っていたのですが、再度翠明館(すいめいかん)に宿泊した際、その時に旅館に残っていたのは山岸だと宿の人に思われていた、ということを聞いたと、山岸に伝えています。

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■1935年(昭和10年)12月20付、山岸外史宛絵ハガキ


 次は、帰宅後、同年12月23日付で、師匠・井伏鱒二に宛てて書いたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 井伏さん
 ゆうべ、かえりました。追いたてられるようにして歩きまわりました。湯本で風邪をひいてしまいました。旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、たゞ、この言葉ばかり口ずさんでいました。心も、からだも、めちゃくちゃです。けさ、ひどく悪いユメを見て、床の中で泣いて、家人に笑われました。お正月にも、ゆかれなくなりました。おゆるし下さい。諸種の事情がありますので。寝正月です。
 私は、いま、牢へはいるのを知りつつ、厳粛な或る三十枚位の小説を書こうとしています。

 太宰は「厳粛な或る三十枚位の小説を書こうとしています」と書いていますが、このハガキの2日後、太宰は佐藤春夫から、「努メテ厳粛ナル三十枚ヲ完成サレヨ。金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。」という一節が記されたハガキを受け取っています。この一節によって、太宰は芥川賞受賞に期待を抱くことになりました。

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井伏鱒二


 最後は、井伏宛のはがきと同日、12月23日付で山岸に宛てて書かれたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

(年賀の礼を欠く)
 ゆうべ旅からかえった。君のはがき見た。「書きます。そのために、きっと僕は牢へはいるだろう。そうして、君をも、僕より重い(○○○○○)刑罰(ハレンチザイ)に附し、牢にぶちこみます。」以上はほんとうのことのです。湯河原、箱根を漂白四日間、風邪の気味で下山。「旅に病んで夢は枯野を駈けめぐる。」五臓六腑にしみた。

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■山岸外史

 旅を終えた翌年、太宰はエッセイ
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碧眼托鉢(へきがんたくはつ)
を発表します。
 1936年(昭和11年)1月1日発行の「日本浪漫派」第二巻第一号から、同年3月1日発行の同誌第二巻第三号まで、3回に分けて連載されました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
近畿大学日本文化研究所 編『太宰治 はがき抄 山岸外史にあてて』(翰林書房、2006年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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