記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月9日

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8月9日の太宰治

  1939年(昭和14年)8月9日。
 太宰治 30歳。

 三鷹の家が、予定通り完成せず、移転が延びる。

三鷹の家が、予定どおり完成せず

 今日は、甲府から三鷹での住居捜しの途中経過について。東京から少し離れた甲府での執筆作業は不便なところもあったようで、1939年(昭和14年)5月頃、太宰は東京への転居を決意します。
 太宰が東京への移転を切望している様子や、難航する住居捜しの様子については、5月26日6月4日の記事でも紹介し、7月15日の記事で、いよいよ契約に至ったところでした。

 太宰が契約した三鷹の住居は、建築中で、完成の連絡を待って転居の予定でした。それでは、7月15日に契約した後の経緯について、2人に宛てて書かれた、2通のハガキを引用しながら見ていきます。

 1通目のハガキは、1939年(昭和14年)8月8日付、高田英之助に宛てて書かれたハガキです。高田は、太宰、伊馬春部とともに「井伏門の三羽烏と呼ばれ、太宰と津島美知子の結婚の立役者でもあります。

  甲府市御崎町五六より
  東京府大島泉津村森口館
   高田英之助宛

 拝啓 拙作を、いつも、いたわって、かゆいところに手のとどくよう、行間空白のところまで、やさしく読んで下さるので、お手紙拝読しながら、私は、幾度となく、赤面しました。ほんとうに、いたわってくれるので、かえって貴兄の愛情に頭を下げたい気持になるのです。御近況、井伏様、斎藤様より、承って居ります。こんどお逢いするときまでには、ずいぶん元気になっていて下さい。私は、信じています。ゆうべ、斎藤様より、送別のごちそうに呼ばれました。こうして、私たちにごちそうして下さるのも、みんな高田君のためを思ってのことなのだ、と思ったら、よそながら親心というもののありがたさ、涙ぐましくなりました。斎藤様御一家、皆様お元気で、いろいろ高田君のお噂いたし、なつかしがって居りました。島にいるあいだ、ひそかに日記、短歌などかきためるのも一興と存じます。島の旭日は、美しいようですね。(私たち、十日頃、移転の筈です。移転したら、お知らせいたします。豚妻からも、くれぐれもよろしく、とのことです。)     不一。

 このハガキを認めた前日、8月7日の夜、太宰は「斎藤様」こと斎藤文二郎宅に呼ばれ、送別会を開いてもらっていました。斎藤は、高田の許嫁(いいなずけ)斎藤須美子の父親で、甲府の交通網を担う御嶽(みたけ)自動車の社長でした。
 ハガキの中にもあるように、この時点では「十日頃、移転の筈」だったようです。

 2通目のハガキは、2日後の、同年8月10日付、山岸外史に宛てて書かれたハガキです。山岸は、太宰、檀一雄とともに「三馬鹿」と呼ばれていました。太宰は、これまでも逐一、山岸に転居の進捗状況について報告しています。

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  甲府市御崎町五六より
  東京市本郷区向ヶ丘弥生町一 弥生アパート
   山岸外史宛

 拝啓
 御転居なされて、今年の秋は、大いに仕事すすむことと存じられます。私も、ことしの秋は、がんばらなければなりませぬ。三鷹の家が、予定どおり完成せず、たいてい十日ごろと家主から言って来ましたが、今明日あたり、確実の知らせ来るだろうと思っています。予想とちがったので、イライラ仕事も出来ず、毎日毎日、本ばかり読んでいます。移転したら、すぐお知らせいたします。
 いずれ、東京で万々。     草々。

 山岸は、「東京市本郷区駒込坂下町一二 椿荘」から「東京市本郷区向ヶ丘弥生町一 弥生アパート」へ引越したようですが、太宰には、「十日頃、移転の筈」と心待ちにしていた新居の完成通知が、まだ届きません。
 美知子と結婚し、三鷹へ引越して心機一転、「がんばらなければ」と思っていたところ、予想通りに進まず、「イライラ仕事も出来」なくなってしまったようです。
 太宰の三鷹転居は、いつ頃実現するのでしょうか。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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