記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】無趣味

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今週のエッセイ

◆『無趣味』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)1月下旬頃に脱稿。
 『無趣味』は、1940年(昭和15年)3月1日発行の「新潮」第三十七巻第三号の「近影二葉」欄に写真一葉と共に発表された。ほかには、「写真道楽」(深田久弥)が掲載された。

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■エッセイ『無趣味』と一緒に掲載された写真 この写真は、太宰の処女短篇集晩年の口絵で使用された。千葉県船橋で撮影。

「無趣味

 この、三鷹の奥に移り住んだのは、昨年の九月一日である。その前は、甲府の町はずれに家を借りて住んでいたのである。その家のひとつきの家賃は、六円五十銭であった。又その前は、甲州御坂峠の頂上の、茶店の二階を借りて住んでいたのである。更にその前は、荻窪の最下等の下宿屋の一室を借りて住んでいたのである。更にその前は、千葉県、船橋の町はずれに、二十円の家を借りて住んでいたのである。どこに住んでも同じことである。格別の感慨も無い。いまの三鷹の家に就いても、訪客はさまざまの感想を述べてくれるのであるが、私は常に甚だいい加減の合槌を打っているのである。どうでも、いい事ではないか。私は、衣食住に就いては、全く趣味が無い。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私には、どうしてだか、ひどく滑稽に見えて仕様が無いのである。

 

太宰の引越し遍歴

  「どこに住んでも同じこと」と言う太宰は、上京してから、何度も引越しを繰り返しています。今回は、エッセイ『無趣味』の中に登場する、太宰が住んでいた場所について、順番に見ていきたいと思います。

①「千葉県、船橋の町はずれ」
 最初に登場するのは、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928(現在の千葉県船橋市宮本1丁目)の借家です。転居をしたのは、1933年(昭和10年)7月1日のことでした。
 太宰は同年4月に盲腸炎と腹膜炎を併発。途中で病院を変えながら、約2ヶ月に及ぶ入院生活を経た後、温暖で療養にも適しているという理由で、選ばれたのが千葉県船橋市でした。ここへの引越しは、作家として駆け出し時代の7年間を共に過ごした最初の妻・小山初代も一緒でした。

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船橋の借家

 この船橋の借家は新築で、八畳、六畳、四畳半の三間と台所、風呂、玄関が付いており、各部屋が鉤状に曲がった1つの廊下で繋がっていて、四十坪ほどの庭もありました。家賃は17円(現在の貨幣価値で、約3万~3万5,000円)。門柱には「津島修治」の脇に小さく「太宰治」と書き加えた表札が懸けられていたそうです。

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船橋時代の太宰と最初の妻・小山初代

 転居後の太宰は、終日、籐椅子(とういす)に寝そべり、本を読む日が続いたといいます。寒竹(かんちく)のステッキを振りながら散歩もしたそうで、京成電車の路線を渡り、自宅近くを流れる海老川沿いに湊町の漁師町を突っ切って、海辺へ出ることが多かったそうです。
 太宰は、1935年(昭和10年)2月に、同人誌以外で初の掲載となる小説『逆光』蝶蝶」「決闘」「くろんぼの3篇)を発表しています。借家ではありましたが、妻と共に一軒家に住み、小説家として身を立てていこうと、強く心に決めていたかもしれません。
 しかし、念願の処女短篇集晩年を出版するも、第1回、第2回の芥川賞落選を経験し、流行作家になることが叶わないまま、「進行するパビナール中毒療養のため」という名目で、東京板橋の武蔵野病院に入院することになり、1年3ヶ月を過ごした船橋の借家を引き払うことになりました。
 太宰は、1946年(昭和21年)に発表した小説十五年間で、船橋時代を次のように回想しています。

私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃きょうちくとうも僕が植えたのだ、庭の青桐あおぎりも僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。

 

荻窪の最下等の下宿屋の一室
 続いては、杉並区天沼一丁目213鎌滝富方の貸部屋(下宿)です。転居をしたのは、1937年(昭和12年)6月21日のことでした。
 太宰は、武蔵野病院への入院中に起きた妻・初代の不倫事件を知り、別れることを決意。布団に机、電気スタンドと行李1つで、単身移転しました。通りを入って、突き当たり原になる角の、閑静な家だったそうです。

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■天沼一丁目の鎌滝富方

 鎌滝富は、7、8室を貸部屋にしており、太宰は二階の西陽の射し込む四畳半を借りました。親友の山岸外史は、著書人間太宰治の中で「鎌滝下宿は、なぜ、こんな下宿に転居したのかと思われるくらいひどい下宿だった。廊下の板もきしむし、襖のあけたてもガタガタしていた。隙間だらけであった。年数がひどく経っている家だった。室数は二階と階下で十室くらいあったように思う。」と評しています。下宿代は、1ヶ月18円(現在の貨幣価値で、約3万~3万5,000円)でした。
 1人暮らしに戻った太宰のもとへは、塩月赳(しおつきたけし)緑川貢(みどりかわみつぐ)長尾良(ながおはじめ)たちが入り浸るようになり、独り身の気安さから、再び不規則で退廃的な生活へと傾斜していき、故郷からの仕送りのほとんどは、取り巻き連中の飲食に浪費されていきました。
 津島家からの依頼で、東京での実生活上の監督の任にあたっていた北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)は、月に1、2度、太宰のもとを訪れては、居候たちを追い払い、その生活状況を長兄・津島文治に報告していたそうです。
 太宰は、この鎌滝富方で、1937年(昭和12年)6月から1938年(昭和13年)9月までの1年3ヶ月を過ごしました。

 

甲州御坂峠の頂上の、茶店の二階
 続いては、山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋の二階です。転居をしたのは、1938年(昭和13年)9月13日のことでした。
 自殺未遂やパビナール中毒、初代との別れなど、荒んだ20代を過ごしていた太宰を、いつまでも独り身にしておくのは危険だと考えた師匠・井伏鱒二や北、中畑は、太宰の結婚相手探しをはじめ、候補に浮上したのが「甲府の女性」だったため、井伏の勧めを受けた太宰は、天沼一丁目の鎌滝方を引き払い、質屋から夏の和服一揃いを出して着飾り、桐の駒下駄を履き、淡い茶色の鞄を1つ提げて、「思いをあらたにする覚悟」で、井伏が約1ヶ月前から滞在していた天下茶屋へと向かいました。重たい鞄には、原稿用紙がどっさりと詰まっていたといいます。

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天下茶屋と御坂トンネル

 太宰は、同年11月中旬までの約2ヶ月間を、この天下茶屋の二階で過ごし、主に中篇火の鳥を書き進めました。滞在中は、いつも茶屋の白地に黒の大きな格子柄の浴衣に、綿の入った青い丹前を着ていました。太宰は背が高かったので、浴衣が膝丈しかなく、すねまで見えていましたが、どこへ行くにもこの格好だったそうです。
 天下茶屋での太宰は、夜遅くまで仕事をして、朝は遅く起き、昼間は来客の相手をしたり、郵便局へ行くなどの雑用をしていました。
 火の鳥の主人公「高野幸代」「須々木乙彦」は、それぞれ天下茶屋「中村たかの」「外川元彦」がモデルだと言われています。

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■古屋たかの(旧姓・中村)

 富嶽百景にも「娘さん」として登場する「中村たかの」ですが、2021年9月2日付の山梨日日新聞で、訃報が報じられました。2021年8月21日に亡くなり、享年100歳。亡くなるまで太宰を「先生」と言って慕っていたそうです。自分のことを方言で「うんだあ」と呼ぶと、「私と言いなさい」と太宰に言葉遣いを直されたこともあったそうで、「大好きでした。あんなに(言葉遣いなどを)丁寧に教えてくれて」「男っぷりもよくて、優しい先生だったねえ」と話していたと言います。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

 

甲府の町はずれ
 続いては、甲府市御崎町56(現在の山梨県甲府市朝日5丁目8-11)の借家です。転居をしたのは、1939年(昭和14年)1月6日のことでした。
 前年11月16日、御坂峠の天下茶屋を下りた太宰は、婚約者の母・石原くらが見つけてくれた、石原家に近い、甲府市西竪町93(現在の山梨県甲府市朝日5丁目3-6)の下宿屋「寿館」に、約1ヶ月半滞在しました。引越しの際には、石原家の方で寝具など身の回りのものを用意してくれるなど、太宰を迎える準備をしてくれていたそうです。太宰は、昼間は原稿を書き、夜は石原家で夕食をご馳走になりながら、関係を築いていきました。

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■戦災前の「寿館」 写真左側の二階家が「寿館」。右側は清運寺の門。

 この「寿館」について、あまり詳細は残っていませんが、太宰の妻・津島美知子は、著書回想の太宰治で次のように回想しています。

 寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。(中略)太宰はほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた。

 この寿館に約1ヶ月間滞在した後、挙式の前々日に、太宰と美知子は「甲府の町はずれ」の御崎町の新居へ引越しました。引越しの日には、風が強く吹いていたそうです。家賃は6円50銭。

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■美知子夫人筆「御崎町新居間取り図」

 御崎町の新居は、八畳、二畳、一畳の三間の家で、八畳の西側は床の間と押入れで、東側は全部ガラス窓、隅に炉が切ってあり、三畳は障子で、二畳の茶の間と、一畳の取次とに仕切ってありました。ぬれ縁が窓の下と小庭に面した南側についており、家の前には庚申バラなどの植込みがあり、奥は桑畑で、しおり戸や葡萄棚がしつらえてあり、通りから引込んでいて、静かな隠居所のような感じだったそうです。太宰は、南側のぬれ縁近く、南天を植えた小庭を前に机を据えて、執筆を行います。美知子の水門町の実家まで、約10分ほどの立地でした。
 御崎町の新居での太宰の様子を、美知子の著書回想の太宰治から引用してみます。

 毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、ときには「お俊伝兵衛」や「朝顔日記」、「鮨やのお里」の一節を語ったり、歌舞伎の声色を使ったりした。「ブルタス、お前もか」などと言い出して手こずることもあった。ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのであるが、兵営の消灯ラッパも空に消え、近隣みな寝しずまった井戸端で、汚れものの片附けなどしていると、太宰が始終口にする「侘しい」というのは、こういうことかと思った。

 ここ御崎町では、同年9月に三鷹へ引越しするまでの約7ヶ月間を過ごしましたが、後年の太宰は、御崎町時代のことを「――幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期――」と回想していたそうです。

 

三鷹の奥
 最後は、東京府北多摩郡三鷹下連雀113(現在の東京都三鷹市下連雀2-14、路地は私道)の借家です。転居をしたのは、1939年(昭和14年)9月1日のことでした。
 同年1月に御崎町の新居に住んでから約4ヶ月が経過し、徐々に暑くなってきた頃、太宰は甲府から東京近郊への転居を計画します。多くの出版社が東京にあり、そこから少し離れた甲府での執筆作業は不便だ、というのが主な理由でした。心置きなく語り合い、気心の知れた仲間たちと飲んだり話したりする雰囲気が懐かしくなったことも影響しているかもしれません。

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三鷹の家の玄関

 急いで歩いて、国電吉祥寺駅から25分、三鷹駅から15分、三鷹駅近くの町並みを抜け、広い畑を越えて行くと、新築の小さな家が固まっており、路地へ入って三軒並んだ和式の借家の一番奥、西南端に位置していました。
 六畳、四畳半、三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二畳坪半ほどの小さな家で、北向きの玄関の障子を開けて入ると正面が六畳間で、左手は一間の押入れと一間の床の間、右手は襖で四畳半と仕切られ、南は三尺幅の縁側で、ささやかな庭に面していて、四畳半の西側が三畳の茶の間とお勝手になっていたそうです。

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太宰治文学サロンに展示されている、三鷹の住居模型。2019年3月、著者撮影。

 太宰は、六畳間の縁近くに桜の机を据えて、午後3時前後まで、1日5枚を限度に執筆に励んだそうです。
 三鷹では、戦時中に甲府と金木に疎開した期間を除いて、亡くなるまでの7年半を過ごしましたが、ここが上京してから一番長く住んだ場所になりました。
 
太宰は、全小説作品155作品のうち、走れメロス』『正義と微笑』『右大臣実朝』『斜陽』『人間失格など、代表作の大部分である約90作品を、ここ三鷹で執筆しています。

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■自宅の門柱脇に植えられていた百日紅(さるすべり) 現在は、太宰の住居跡の近くに建つ、三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭(せいしんてい)」の庭に移植されています。2021年9月、著者撮影。

太宰治文学サロンで展示されている三鷹の自宅模型」では、1948年(昭和23年)4月に縁側で撮影された微笑ましいシーンも再現されています。

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■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて。

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太宰治文学サロンに展示されている、三鷹の住居模型。2021年6月、著者撮影。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・橘田茂樹『太宰治と天下茶屋 ー太宰治が遺したもの』(山梨ふるさと文庫、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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