記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月1日

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9月1日の太宰治

  1939年(昭和14年)9月1日。
 太宰治 30歳。

 甲府を引き払い、やっと完成した、東京府北多摩郡三鷹下連雀百十三番地の借家に移転した。

念願の、甲府から三鷹への引越し

 太宰は、1939年(昭和14年)5月上旬頃から、甲府から東京近郊への転居を計画します。多くの出版社が東京にあり、そこから少し離れた甲府での執筆作業は不便だというのが、その理由でした。
 この甲府から東京近郊への転居については、5月26日6月4日7月15日8月9日の記事で、4回にわたって紹介してきましたが、今回いよいよ引越しとなります。

 1939年(昭和14年)9月1日。
 急いで歩いて、国電吉祥寺駅から25分、三鷹駅から15分、三鷹駅近くの町並みを出て、広い畑を越えて行くと、新築の小さな家が固まっており、その和式の借家の一番奥、西南端に位置する借家へ引越しました。

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三鷹の家の玄関

 引越し当日の様子について、太宰の妻・津島美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 昭和十四年九月一日から太宰は東京府北多摩郡三鷹下連雀の住民となった。
 六畳四畳三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二坪半ほどの小さな借家ではあるが、新築なのと、日当たりのよいことが取柄であった。太宰は菓子折の蓋を利用して、戸籍名と筆名とを毛筆で並べて書いて標札にして玄関の左の柱にうちつけた。門柱ぎわの百日紅(さるすべり)が枝さきにクレープペーパーで造ったような花をつけていた。

 

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■「門柱ぎわの百日紅(さるすべり)」 現在は、三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭(せいしんてい)」の庭に移植されています。 2017年、著者撮影。

 

 南側は庭につづいて遥か向こうの大家さんの家を囲む木立まで畑で、赤い唐辛子や、風にゆれる芋の葉が印象的だった。西側も畠で夕陽は地平線すれすれに落ちるまで、三畳の茶の間とお勝手に容赦なく射し込んだ。

 

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三鷹の家の庭

 

 引越しの当日太宰は荻窪に荷物のひきとりに行った。昨秋御坂に出発するとき、下宿にあった物を井伏家に預かっていただいて一年も経っていたし、丸屋質店の倉庫に入っているものもあった。持ち帰った行李(こうり)には毛布、ひとえもの二、三枚、卓上灯、硯箱(すずりばこ)などが入っていた。
 三鷹に移ってからはもう御崎町時代のように酔って義太夫をうなることもなくなり、緊張度が高まったように思う。

  太宰はここ三鷹で、戦時中に甲府・金木に疎開した時期を除き、7年半を過ごします。12坪半ほどの借家で、六畳間を書斎にして午後3時前後まで、1日5枚を限度に執筆しました。
 太宰は7年半三鷹での生活の中で、全小説作品155作品のうち、走れメロス』『正義と微笑』『右大臣実朝』『斜陽』『人間失格など、代表作の大部分である約90作品を執筆しました。

 2008年(平成20年)3月1日、太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地で開館し、太宰に関する情報を発信し続けている太宰治文学サロンでは、三鷹の自宅模型」が展示されています。

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太宰治文学サロン 三鷹駅南口から徒歩4分。開館時間:午前10時~午後5時30分。入館無料。月曜、年末年始は休館。

 この模型は当初、2018年(平成30年)6月16日~7月16日まで、三鷹市美術ギャラリーで開催された特別展「太宰治 三鷹とともに -太宰治没後70年-」で展示されました。残された資料写真や回想などを元に、不明確な点は、同時代の三鷹の住宅を調査した報告書や専門書を元に、もくきんど工芸さんが作製したそうです。

 太宰は、三鷹陋屋(ろうおく)を、作品の中に度々登場させました。三鷹の自宅模型」を撮影した写真を、作品の引用と一緒に紹介します。(「三鷹の自宅模型」は、2019年訪問時に撮影。商業目的での使用をしないことを条件に、ブログ掲載許可を頂いています。)

 

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私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」ー東京八景

 

東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に小説を書いて、二年後には女の子が生まれた。-帰去来

 

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「井戸は、玄関のわきでしたね。一緒に洗いましょう。」
と私を誘う。
私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。-女神

 

たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後始末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、(中略)
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、(中略)
私は隣の四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。(中略)
玄関前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。-おさん

 

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夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、(後略)ー桜桃

 

わが陋屋(ろうおく)には、六坪ほどの庭があるのだ。-失敗園

 

(前略)庭にトマトの苗を植えた事など、ながながと小説に書いて、ちかごろは、それもすっかり、いやになって、なんとかしなければならぬと、ただやきもきして新聞ばかり読んでいます。(中略)
きょうはこれから庭の手入れをしようと思っています。トーモロコシが昨夜の豪雨で、みんな倒れてしまいました。-風の便り

 

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私の家は三鷹の奥の、ずっと奥の、畑の中に在るのであるが、ほとんど一日がかりで私の陋屋(ろうおく)を捜しまわり、やあ、ずいぶん遠いのですね、と汗を拭きながら訪ねて来る。-

 

翌る日、起きて、ふたりで顔を洗いに井戸端へ出て、そこでもう芸術論がはじまり、(中略)朝ごはんを食べて、家のちかくの井の頭公園へ散歩に出かけ、行く途々も、議論であります。(中略)
私の家の小さい庭は日当たりのよいせいか、毎日いろんな犬が集まって来てたのみもせぬのに、きゃんきゃんごうごう、色んな形の格闘の稽古をして見せるので実に閉口しています。-『このごろ』

 

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(前略)いったい私は、自分をなんだと思っているのか。之はてんで人間の生活じゃない。私には、家庭さえ無い。三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来上がると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。(中略)あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。ー

 

今年、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈である。
三井君は、小説を書いていた。ひとつ書き上げる度事に、それを持って、勢い込んで私のところへやって来る。がらがらっと、玄関の戸をひどく音高くあけてはいって来る。(中略)作品を携帯していない時には、玄関をそっとあけてはいって来る。だから、三井君が私の家の玄関の戸を、がらがらっと音高くあげてはいって来た時には、ああ三井君が、また一つ小説を書きあげたな、とすぐにわかるのである。-散華

 

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 太宰治文学サロン三鷹の自宅模型」では、1948年(昭和23年)4月に撮影された、微笑ましいシーンも再現されています。

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■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「太宰が生きたまち・三鷹」(三鷹市
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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