記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月25日

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10月25日の太宰治

  1945年(昭和20年)10月25日。
 太宰治 36歳。

 十月二十五日付で『お伽草紙』を筑摩書房から刊行。

終戦直後、お伽草紙を刊行

 1945年(昭和20年)10月25日付で、お伽草紙筑摩書房から刊行されました。お伽草紙の初版本は、戦災で東京の印刷所が残っていなかったため、長野県伊那郡伊那町大字伊那で印刷されました。
 太宰は、筑摩書房の書房主・古田晁(ふるたあきら)の要請に応じて、お伽草紙の題字と署名とを金木から送付しています。

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お伽草紙 「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」収載。

 お伽草紙は、空襲警報が連日鳴り響く中、三鷹甲府で書き継がれました。初版本では、「アメリカ鬼」「イギリス鬼」の部分が、それぞれ「××××鬼」と伏字になっていたりと、終戦直後のGHQによる検閲の状況が感じられます。

 今日は、太宰の弟子・小山清(こやまきよし)二人の友に収録されている「『お伽草紙』執筆の頃」からの引用で、太宰がお伽草紙を執筆していた頃の様子を紹介します。

 昭和二十年三月十日に、東京の下町にB29の襲撃があり、その時、下谷龍泉寺町で私は罹災した。四五日たってから、私は三鷹の太宰さんの許をたずねた。太宰さんは笑いながら「いたましき罹災者か」と云って、私をむかえた。私はこの際三鷹に引越してきたいと思い、この近所に貸間はないだろうかと太宰さんに訊いた。その頃、私は三河島のある軍需工場に徴用されていた。三鷹にきては少し遠くなるが、通勤できないという距離でもなかった。いいあんばいに、太宰さんの向いの隣りの家で、玄関わきの小部屋を私に貸してくれた。太宰さんは私に向い、「一緒に勉強しよう」と云った。太宰さんは「お伽草紙」の仕事にとりかかっていて、引越してきた私は、太宰さんの机上に「前書き」と「瘤取り」の書出しの部分が二三枚書きかけてあるのを見た。

 

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 三月末に、奥さんとお子さん達は甲府の奥さんの里に疎開して、私は間借り先から太宰さんの家に移った。四月二日未明に、家の近所一帯が爆撃にあった。時限爆弾なるものをはじめて使用した空襲であった。偶々、その頃横浜にいた田中英光がその前の晩に来合わせて泊り込んでいて、三人は防空壕に避難したが、壕の土が崩れてきて半身埋まり、危うく命拾いをした。爆撃のため家が半壊したので、太宰さんと私は四五日、吉祥寺の亀井勝一郎の許に厄介になった。私は太宰さんに、三鷹の家には私が残るから、奥さんの里に行ったらどうかと提案してみた。太宰さんはほっとした面持で、「きみも時々遊びにくればいいね」と云った。太宰さんは気が弱く、自分からはそういうことを云い出せる人ではなかった。「お伽草紙」の草稿は、私が下谷から移ってきた時のままのようであった。田中英光がその書きかけを読んで、「巧いなあ」と感嘆したのを私は覚えている。
 甲府へ行く太宰さんを送ってゆき、ついでに私も一週間ばかり遊んできた。毎夜のように空襲があった東京に比べると、甲府は嘘のようにのんびりしていた。サーカスの興行があったらしく、そのポスターが町のところどころに掲げてあるのが目についた。甲府市外の青柳という処で床屋をしている「いろは歌留多」の作者熊王平氏をたずねたり、また、その頃甲府市外の甲運村に疎開していた井伏鱒二氏と三人で、武田神社のお祭りの日(四月十二日)に、太宰さんの奥さんがこしらえてくれた弁当を持って、花見に行ったりした。花見に行った翌日私は三鷹に帰ったが、四五日して、太宰さんから、そろそろ仕事をはじめているという便りがあった。
 その後、私は時々甲府へ遊びに行った。

瘤取り」を書きあげ、「浦島さん」にとりかかったのは五月のようで、上旬に、「仕事は、どうも、タバコが無いので、能率があがりません。でも、きのうから浦島さんに取りかゝっています。やっぱり仕事だけですね。ただ考えていたんでは、不安やら後悔やらで、たまりません。そちらも、どうか、ヒッソリお仕事を」という便りがあり、下旬には、「私もだんだん落ちついて、いまでは毎日五枚ずつ順調にすすみ、そうして夜は、お酒も飲まず神妙に読書しています」という便りがあった。
 六月上旬に、私がたずねた時には既に「浦島さん」は書きあげてあって、「カチカチ山」も稿半ばであった。机上にあった「浦島さん」の草稿に、私が気なしに手をのばしかけたら、太宰さんは邪慳(じゃけん)にその手をはらいのけて、「この作品は一人か二人の人に理解してもらえればいいのだ」ときびしい表情をして云った。この頃は甲府も、B29がビラを撒いて行ったりして、物情騒然としてきていた。

 

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小山清

  お伽草紙は、1945年(昭和20年)6月末に、瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀の全4篇200枚を完成。脱稿から4ヶ月後の10月25日、甲府から金木町へ疎開してから刊行されました。

 【了】

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【参考文献】
小山清『二人の友』(審美社、1965年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、1019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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