6月26日の太宰治。
1945年(昭和20年)6月26日。
太宰治 36歳。
「お伽草紙」は、もう二、三十枚で完成となった。
太宰と弟子・菊田義孝
1945年(昭和20年)3月10日、「東京大空襲」と呼ばれる、アメリカ空軍機B29約150機の、焼夷弾による大爆撃が東京を襲った頃。太宰は、『お伽草紙』の「前書き」を書き終え、「瘤取り」を2、3枚書き始めていました。
そして、同年6月26日。太宰は、甲府に疎開しながら『お伽草紙』の稿を継ぎ、残り2、30枚というところまで書き進めていました。
この日に、太宰が書いたハガキがあります。まずは、引用して紹介します。
甲府水門町二九 石原方より
宮城県名取郡生出村南赤石
菊田義孝 宛
拝復 御手紙をありがとう。とうとうお百姓になる御覚悟きめた由、大賛成です。私もいま気がかりの仕事を片づけてしまったら、毎日畑仕事に精進するつもり。自分で作らなければ食えない世の中になった。またお逢い出来るかどうか、とにかく奥さんも田舎で安心してお産できるだろうし、それだけでも幸福と思わなければならぬでしょう。
れいのロジンの「惜別」は朝日新聞社から出版のようにきまりました。同時に支那訳も。「お伽草紙」は、もう二、三十枚で完成、もう一つ中篇を書いて、七月中旬上京の予定也。
『お伽草紙』は、6月末に、全4篇200枚が完成されました。
太宰がハガキを書いた
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菊田は、1937年(昭和12年)明治大学専門部文芸科を卒業。高山書院で雑誌図書の編集に従事していました。
太宰の弟子・田中英光が『オリンポスの果実』を高山書院で出版したのがきっかけで、太宰に師事することを決意しました。太宰に絶対信従の姿勢で、1941年(昭和16年)8月3日、三鷹の太宰を初訪問します。その後、頻繁に太宰のもとを訪れるようになりますが、菊田は無教会主義的信仰を持ったキリスト者であったため、太宰との会話は、聖書について話すことが多かったそうです。
太宰は、「キリストの気品に比べれば、ゲーテも土方人足のごとしさ」などと語り、手を変え品を変えユニークなキリスト像を展開したため、菊田に驚きと安堵とを与えました。菊田は当初、聖書を律法的に解釈していましたが、後に、太宰の影響で福音的な読み方もするようになっていきました。菊田は、太宰とキリスト教とのかかわりを記した『太宰治と罪の問題』、『私の太宰治』、『太宰治弱さの気品』などの著書を出版しています。
1944年(昭和19年)の大晦日、太宰は菊田夫妻に招かれ、中野の自宅を訪問しています。多くの弟子たちの来訪には快く応じる太宰ですが、自ら弟子の自宅へ赴くことは珍しいです。太宰は、『惜別』を執筆するための資料調査で、菊田の故郷である宮城県仙台市から帰京したばかりでした。
太宰は、『惜別』の資料収集の際に心を捉えた「
現存する太宰から菊田への16通の書簡の中には、菊田の詩作を励まし、小説を丁寧に批評する、細やかで厳しい、太宰の姿勢を伺うことができます。書簡には、聖書からの引用(空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、…等)や、「私は塚本先生を陛下の教師にしたいと空想しています」の文言が見られます。「塚本先生」とは、塚本虎二のこと。塚本は、太宰が愛読した月刊誌「聖書知識」の主幹でした。
菊田が所蔵していた太宰の自筆原稿『メリイクリスマス』は、太宰の妻・津島美知子が、太宰の弟子・小山清に贈呈したのを譲り受けたものでしたが、菊田の没後、青森近代文学館へ寄贈されました。原稿の装丁に使われた布は、太宰の着衣だそうです。
■菊田が所蔵していた『メリイクリスマス』の自筆原稿
【了】
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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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