記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月31日

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12月31日の太宰治

  1944年(昭和19年)12月31日。
 太宰治 35歳。

 大晦日に、さそわれて菊田義孝宅を訪れた。

菊田義孝と過ごす大晦日

 1944年(昭和19年)12月31日。太宰は、大晦日に弟子・菊田義孝(きくたよしたか)に誘われ、菊田宅を訪れました。この時の様子を、菊田の太宰治と罪の問題所収の回想『邂逅と別離』から引用します。

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■菊田義孝(1916~2002) 仙台生まれの小説家、詩人。太宰の弟子。

 その年の大晦日、私はあの人を中野の自分の家へ案内した。
「女房が一度先生をお()びしたいと言っていますが」
「よし、行こう」ということで、その日、昼過ぎ、私が迎えに行くと、あの人はさっそく外出の仕度をして、ズボンの上にゲートルを巻いた。時代のついた黒い羅紗(ラシャ)の詰襟服だったように思う。くにの次兄から送られたものだ。そんなこともそのとき、聞いたように思う。綿入れの防空頭巾を首に掛けた。鉄カブトだけは下げなかった。その頃はあの人でさえも外出に際しては、そんな服装をしなければならなくなっていたのだ。最初の本土大空襲の日が、三カ月後に迫っていた。

私はもちろん国防服にゲートルを巻き、戦闘帽を被り、鉄カブト、防空頭巾を背負っていた。駅の改札前で、私が先ほど降りるとき買って用意しておいた切符をあの人へ渡すと、「これは、君にしては、気がきいたね」と言われた。「恋は、人を知恵者にする。」私はこっそり胸の中で呟いていた。あの人は「惜別」を書くために、魯迅が仙台の医学校に在学当時の資料調査のため仙台にいって帰って来た直後のことであった。仙台は私の故郷である。

「仙台へ着くと、河北新報の記者が駅に迎えに出ていてくれた。その人とふたりで街を歩いていたら、思わず、汚ねえまちだなあ、という嘆声がもれちゃったんだ。そうしたらその河北の人が、実に不満げな顔をして、なんとかかんとか、弁解していたよ」途々そんなことを言って、私を苦笑させた。家に着いてみると、近所からもらい集める手筈になっていた酒が思うように集らなくて、焼酎がわずか三合ばかりしかないことがわかった。
「いや、大丈夫。焼酎は、お茶で薄めて飲んでもいいんだ。案外、乙な味がするものだよ」あの人が取りなし顔に言う。私もやや力を得て、さっそく湯をわかし、茶を()れさせた。
「どれどれ、僕が薄めてやろう。なかなかこれは、加減が要るんだ」あの人は土瓶を受けとると、加減しいしい焼酎の中へ注ぎこんだ。
「うむ。まずこのへんで、いいだろう」それから猪口(ちょこ)でゆっくりと飲み出した。何の話をしたのか、いまはほとんど忘れてしまったが、ともかく話は、次ぎから次ぎと、尽きなかった。
「僕はこんど、魯迅のおかげで、すっかり支那通になっちゃたよ」あの人が冗談めかしてそう言ったのを憶えている。私は時の移るのも忘れていた。焼酎もおかげで案外長もちした。朝から薄曇りの日であったが、部屋の中に暮色が忍び入ってたがいの顔も(おぼ)ろげになった頃、ようやく焼酎も終わりを告げた。話が自然に途絶えた瞬間、私が立ち上がってパチと電燈を点けると、二人ともふっと(にわ)かに眼が醒めた気持になった。二人で顔を見合わせた途端に、
「今日は、完全に、戦争の事を忘れられたね」そう言って、ちょっと嬉しそうだった。言われて気がつくと、まさしくその二、三時間ばかりというもの、この部屋の中では戦争気分というものが、ほとんど完全に影をひそめていたのである。女房が乏しい材料をかき集めて作った粗末な料理があれこれと卓子(たくし)の上に並べてあったが、あの人はそれに一つも手をつけていなかった。最後に女房がすすめると、天ぷらの皿をとり上げて、素早くぺろりと平らげた。更にすすめると、もう一皿お代わりをした。それを最後に立ち上がったあの人について、私も外へ出た。玄関で靴紐を結びながら、あの人は、「菊田君には、これでもどこかいいところもあるんですから、いつまでも棄てないでやって下さい」と、ずいぶん消極的なとりなしをして、女房を笑わせた。家の前は畑で、そこを通り過ぎると、舗装された往還へ出る。白っぽい往還の上を、防空服装の人がひとり、自転車に乗って走り過ぎた。大晦日といっても、全くなんの風情もない。忘れていた戦争の気配がたちまちどこからかひそひそと忍び寄ってくる。すこし猫背のあの人は、防空頭巾を背負ったその背を一層かがませて、足許を見つめながら歩いていたが、
聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)、という言葉を知っているか。達磨(だるま)大師が、支那の皇帝から禅とは何か、と聞かれたとき答えた言葉だそうだ。聖諦。神聖の聖の字に、あきらめ。どうだ、いいだろう。深いだろう」

 私は薄暮の、曇った大空に、眼をやった。聖諦。まさかそんな大それたものではなかったが、私の中にも一種のあきらめはあった。「われ主のために何を棄てし」讃美歌のなかに、たしかそういう文句があった。おれは果してこの人のために、何を棄てたことがあるだろう。いつだってまったく一方的に、サービスを受けるばかりなのだ。この人は、疑いもなく、大作家だ。それだけに、この人の荷物は重い。しかもおれは、この人のたださえ重い荷物を一層重くするような事ばかりしている。おれにできる一ばんいい事といったら、いっそ二度とこの人に会わない事かもしれない。しかし、それが、今さらできるくらいなら!……あきらめろ。この人は、「風の便り」の井原退蔵のように、遊びの責任を全部自分の肩に背負って、ずかずかと足音高く遊ぶ人だった。これからもまたそうだろう。おれはもうこの人にお返ししようなんて、思うまい。お返ししようなんて思うこと、それさえ卑しいことではないのか。おれは招かれざる訪問者としての役割を、自分の宿命として受け入れる。今までこの人に掛けて来た全部の迷惑を肯定する。いつかはこの人を(さば)くその神と、同じ神におれも(さば)かれるのだ。この人への借りは、そのまま神への借りなのだ。……それと同時に、自ら直接身を置いたことはない戦場の事が、漠然と思われた。戦場もここも同じ空の下。そしてすべては、「永遠」の中の一コマ。そういう感覚が、奇妙にまざまざと心を包んだ。
「聖諦か。いいですね」私は口の中でぼそぼそ呟きながら、わざと深く面を伏せてけだもののように(、、、、、、、、)歩いていた。その翌年書かれた「お伽草子」の「浦島さん」のなかに、この「聖諦」という文字が出てくる。

 かすかに、琴の音が脚下に聞える。日本の琴の音によく似ているが、しかしあれほど強くはなく、もっと柔かで、はかなく、そうしてへんに嫋々たる余韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ぬ気高いさびしさが、その底に流れている。
「不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。」
 亀もちょっと耳をすまして聞いて、
「聖諦。」と一言、答えた。
「せいてい?」
「神聖の聖の字に、あきらめ。」
「ああ、そう、聖諦。」と呟いて浦島は、はじめて海の底の龍宮の生活に、自分たちの趣味と段違いの崇高なものを感得した。

 私はその夜あの人について吉祥寺まで行き、又もやあのスタンドで大酒を飲んで、夜ふけてから帰宅したのであった。

 

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 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治と罪の問題』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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