3月10日の太宰治。
1945年(昭和20年)3月10日。
太宰治 35歳。
陸軍記念日の零時少し前から、本所、深川、下谷、浅草、城東など東京市中下町の各区に、マリアナ基地を発進したアメリカ空軍機B29約百五十機の、焼夷弾による大襲撃があった。
太宰と東京大空襲
「陸軍記念日」とは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の
1945年(昭和20年)3月10日の「東京大空襲」は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説があります。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布していて、この噂が後々になって事実であるかのように出回っていました。日本側には事実とする書籍や資料が存在しますが、アメリカ側の資料では確認できないそうです。
■焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影された写真。右側にある川は墨田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。
東京は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けましたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25~26日の5回は大規模なものでした。
その中でも、推定死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間襲撃(下町空襲)は「東京大空襲」と呼ばれます。この1回の空襲だけで、罹災者は100万人を超えました。
■東京を空襲しているB-29爆撃機。1945年(昭和20年)のものだが、詳細な日時は不明。
アメリカの大型戦略爆撃機B29、約150機による大襲撃。焼夷弾約20万個が投下され、火は強い風に煽られて、大火災となりました。
太宰の妻・津島美知子は、三鷹から「東の空が真赤に燃えるのを望見してから、私たちの気持も動揺し始めた」と、当時の様子を語っています。
同日午前、「文藝」編集部の野田宇太郎が来訪。約束していた小説『竹青』の原稿を渡しました。野田は、「河出書房が焼けているかも知れないが、たとえどうあっても文藝は刊行するつもりだ」と話して別れました。
●太宰と野田宇太郎については、こちらの記事でも紹介しています。
同日、弟子の小山清が、下谷区竜泉寺三百三十七番地読売新聞出張所で罹災。太宰を頼って、三鷹に避難してきます。この時の様子を、津島美知子『回想の太宰治』から引用してみます。
下谷の竜泉寺で罹災した小山清氏が太宰を頼って来て、妻子を甲府に疎開させることを強く勧められた。これまで甲府市中で、駅に近く三鷹よりずっと家の建てこんだ水門町の実家に疎開する気は全くなかったのに、空襲体験者である小山さんの勧めに従って、三月下旬私と二児とは太宰に送られて甲府に疎開することになった。
荷物をまとめているうちに私は衝動的に、タンスにしまってあった手紙やはがき――それは結婚前とり交わした手紙を太宰がお守りにしようねといって紅白の紐で結んだ一束と、その後の旅信とであったが――をとり出して庭に持ち出し太宰と小山さんふたりの面前で、燃やしてしまった。その折の自分のことをふり返ってみると、この先どうなるかわからないのに、これらの私信を人の目に触れさせたくない気持もあったが、その裏にはこのような事態に当たって、家長である太宰は、何一つはっきりした判断も下さず、意見も出さず、小山さんの言うがままに進退をきめることになったのが、おもしろくなくて、仕事だけの人なのだから仕方がないとはいうものの、じつに頼りない。大体、気の弱い人の常として、第三者に気兼ねして家人をないがしろにする傾向がある。私と子供との甲府行は納得して決まったことではあるが、小山さんが狭いわが家に闖入 してきたために追い出されるような気もして、そのようなヒステリックな行動をとったらしい。
■小山清
美知子が甲府に疎開した後、「三鷹の
【了】
********************
【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************
【今日は何の日?
"太宰カレンダー"はこちら!】
【太宰治、全155作品はこちら!】