記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月19日

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3月19日の太宰治

  1942年(昭和17年)3月19日。
 太宰治 32歳。

 小山清(こやまきよし)が旅館に訪れ一泊。

タイミングの悪い小山清

 太宰は、1942年(昭和17年)3月10日から3月20日までの10日間、奥多摩御嶽駅和歌松旅館に滞在し、正義と微笑の原稿を書いていました。
 同年2月5日、太宰は阿佐ヶ谷会で奥多摩御嶽にハイキングに来ています。自分の行き慣れたところ以外には、なかなか出向かなかったという太宰が、小説執筆の地に御嶽を選んだということは、余程この地が気に入ったのでしょうか。ちなみに、同年4月9日にも、太宰は、一番弟子・堤重久の出征壮行会を兼ねて、奥多摩の同じ和歌松旅館に一泊しています。

 太宰は、同年1月に正義と微笑の稿を起こし、途中、甲府での執筆を挟みながら、3月19日、奥多摩御嶽の和歌松旅館で原稿292枚を脱稿しました。
 甲府湯村温泉明治屋に滞在していた際には、堤重久を甲府に招いて共に遊びました。この時の様子は、2月23日の記事で紹介しました。

 さて、正義と微笑を脱稿した3月19日、太宰が滞在していた和歌松旅館に、弟子の小山清が訪問します。

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小山清

 太宰は、甲府湯村温泉明治屋から三鷹に戻った翌日の3月2日、小山清に宛てて、次のハガキを出しています。

 拝啓
 昨夜おそく帰京いたしました。ただいま、貴稿を拝読しました。予想以上というわけでもなし、また、予想以下という事も決してありませんでした。ところどころに貴重なものが光っていて、うごかされました。亀井勝一郎君にたのんで「文学界」に発表できるとよいのですが、近日とにかく亀井君と相談するつもりです。御自愛下さい。       不一。
(一週間ばかり家にいて、また出かけるかも知れませんが、おひまの折には遊びに来給え。)

 「貴稿」とは、小山が書いていた小説の原稿のこと。第二次世界大戦の影響で、この原稿はすぐ世に出ることはありませんでしたが、太宰は小山の原稿を大切に保管しており、太宰亡き後の1952年(昭和27年)に『小さな町』(「文学界」)や『落穂拾い』(「新潮」)として小説を発表。小山は、作家としての地位を確立しました。

 今回の小山の訪問は、太宰からの「おひまの折には遊びに来給え。」という誘いを受けてのものだと思われますが、小山が一泊した翌日の3月20日、新たな来客が訪れます。

 3月20日、太宰が御嶽に出発する際に約束していた通り、妻の美知子が長女・園子を背負い、滞在費を持って迎えに来ました。園子は、前年の6月7日に生まれたばかりでした。

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■津島美知子

 美知子は、「水入らずの団欒(だんらん)を、渓流にのぞむ山の宿で」という「夢」を抱いて御嶽を訪れたのですが、先客に小山がいたことで、その「夢」が「一遍にぺしゃんこになった」と言っています。太宰は、妻子・小山とともに三鷹に帰宅しました。

 3月10日更新、東京大空襲について書いた記事で紹介しましたが、被災した小山が三鷹の太宰の元を訪れ、美知子さんが疎開、太宰と小山が残ることになった際にも、美知子は「小山さんが狭いわが家に闖入(ちんにゅう)してきたために追い出されるような気もして」と書いています。美知子にとって、小山の印象は、あまり良いものではなかったのでしょうか。意図してのことではないでしょうが、タイミングの悪い小山清なのでした。

  【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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