記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月9日

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4月9日の太宰治

  1942年(昭和17年)4月9日。
 太宰治 32歳。

 堤重久(つつみしげひさ)と、堤の三人の友人桂英澄(京都帝国大学文学部美学科)、石澤深美(慶応義塾大学文学部独逸文学科)、池田正憲(東京帝国大学文学部仏蘭西文学科)と、それに京都から上京中であった堤重久の姪紫都子(しずこ)などと、堤重久の壮行会を兼ね、奥多摩に遊んで、和歌松旅館に一泊。

堤重久の出征壮行会

 4月7日、太宰の一番弟子・堤重久(つつみしげひさ)は、三鷹の太宰を訪問し、「応召が四月十五日になった」と報告します。これを聞いた太宰は、堤に、壮行会を兼ねた奥多摩への一泊旅行を提案しました。

 2日後の4月9日。約束通り、太宰と堤、堤の友人3人、堤の姪・紫都子(しずこ)の6人で奥多摩へ行き、和歌松旅館に一泊します。

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奥多摩御嶽にて 堤重久の出征壮行会を兼ねて。右から太宰、紫都子(しずこ)、堤、石澤深美、池田正憲。撮影:桂英澄。

  この日、同行した石澤深美は、この日の堤の人選について、

 (著者注:堤、桂、石澤、池田の4人の中で)年長の堤は、すでに四月十五日に入営が決まっていたし、桂、池田、それに私にも、いずれは戦場に駆り出される運命が待ち受けていた。
 昭和十五年ごろから、当時まだ文壇の一角にやっと顔を出したばかりの太宰治の作品に、大いに傾倒していた堤は、すでに太宰とはきわめて親密な関係にあった。そして私共も、太宰の作品や人柄については、彼の口からしばしば聞かされ、大いに関心をもっていた。
 しかし、堤は、自分の入営の日がせまるにつれて、私共三人を、直接太宰に紹介しておこうと思い立ったらしい。

と記しています。

 堤自身は、太宰治との七年間』で、次のように記しています。

 太宰さんとの再会を信じてはいても、赴くところが戦場とあれば、生死はやはり期しがたかったので、この機会に、これら旧友を太宰さんに会わせておきたかった。殊に桂君は、文学を語りうるごく少数の友人の一人であり、既に作家志望でもあったので、私の留守中、自分の身代りに、太宰さんの傍においておきたい気持が強かった。

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奥多摩御嶽にて 右から石澤、紫都子(しずこ)、太宰、堤、池田。撮影:桂。

 今回は、堤の出征壮行会に同行した石澤深美の『戦時下の太宰治と私』(『太宰治研究3』所収)から、この日のエピソードについて引用して紹介します。
 石澤は当時、慶応義塾大学のドイツ文学科に在籍する24歳の学生。堤は1つ年上の親戚であり、大親友でもあったそうです。

 春とはいえ、まだ肌寒い四月初旬のある日、我々四人に、さらに紅一点として、S(著者注:紫都子(しずこ))という十七歳の女性も一人加わり、中央線立川駅のホームで太宰と落ち合うことになった。Sは京都に住む堤の姪で、小柄ではあったが、もって生まれた愛嬌と、あでやかな雰囲気をもった女性であった。堤は、男ばかりの一行に、一輪の花をそえるつもりで連れて来たらしかった。
 さて一行は、立川からさらに青梅線で御岳まで行き、そこで、太宰のなじみの旅館に一泊し、堤の壮行会をかねて、大いに清遊しようという計画であった。
 「虚構の彷徨」や「ダス・ゲマイネ」の作者太宰が、いよいよ目の前にあらわれるというので、堤以外の三人は以上に緊張していた。
 定刻を四、五分過ぎたとき、下りの省線(今のJR)がホームにとまり、後部の車輛から、一人の背の高い男がおりて、ゆっくりこちらに歩いて来た。男は二重回しに鳥打帽をかぶり雪駄ばきであった。「あっ、太宰さんだ」と堤がまず叫び、小走りに彼に近付いて行くと、先方もこちらに気がつき、にこにこ笑いながら、かけ寄った堤と二言三言軽口をたたき合った。そして初対面の四人の方をちら(、、)と見て、ややてれたような笑顔で帽子をかぶったまま軽く頭をさげた。
 まもなく一行は、青梅線に乗り込んだ。
 車内は、行商のおばさん連中や一般の乗客で混んでいた。そのうち、社内もだんだん空いてきて、五人もそれぞれ席を取ることが出来た。太宰さんと堤は、同じ側の列に少しはなれて座っていた。二人はすでに親しい間柄なので、何か冗談を言い合っていたが、ほかの四人は初対面なので、二人と向かい合った前の席から黙って笑いながら二人の話を聞いているだけだった。
 私は、太宰さんの顔は、かねてから彼の作品の表紙などの写真で、知っていた。しかし、目の前に見る彼の顔や表情には、私の想像に反して、若い時の写真などから受ける虚無的な感じや病的な暗さは少しもなかった。むしろ、私は健康で、明るいものを感じて、内心ほっとしていた。
 今にして思えば、彼はこのころ彼の作品のうちでも最も明るいと思われる「正義と微笑」を書き上げ、ほっとしていた頃で、その気持が外面にもあらわれていたのであろう。
 さて、こうして太宰さんと堤の間で取り交わされる冗談を、四人が黙って聞きながら笑っていたとき、突然太宰さんが口をつぐみ何か落ち着かない様子になった。視線も何やらキョトキョトとあらぬ方向にむけられている。おやと思って視線の向かう方を見ると、我々が気付かない間に、太宰さんの座席から一メートルほどのところに、五歳位の男の子が一人立っていた。どうやら途中の駅から乗って来たらしい。太宰さんはその子のことが気になっているらしい。席を譲ってやろうかと思うのだが、何しろ立川からずっと立ちづくめ、やっと座れた席だけに、なかなか決心がつかない。やっと意を決して、尻を半分浮かせたとき、突然子供の近くに座っていた乗客が一人、次の駅でおりるために立上がり、空席が一つ出来た。しかし、子供はまだそれに気がついていない。すると、太宰さんはいかにもほっとした顔をして、腰を浮かして長い手をのばし、子供の肩をやさしくたたいて、その顔を見ながら黙って空席の方を指さした。それは、ほんの短い間の出来事だった。しかし、子供が立っているのを見たときの太宰さんの困惑した顔、子供に空席を教えたときのやや照れたいたずらっぽい笑顔、正に天衣無縫といおうか軽妙といおうか、我々は思わず釣りこまれて笑ってしまった。堤が横から「先生ずるいや」といってからかうと、太宰さんは黙ってにこにこ笑っていた。
 こうして着いた御岳の旅館での一夜は、私にとって終生忘れ得ぬものとなった。
 この夜、太宰さんは、戦時下の配給制ですでになかなか手に入らなくなった酒を、かねてから顔馴染みの女将(オカミ)の前で、三拝九拝して調達して貰い、大いに我々に振舞ってくれた。
 もっとも、一行五人のうち堤と桂はほとんど酒が飲めず、ほかの一人は女性だったので自然、酒は大部分太宰さんと池田と私にまわるということになった。
 主席の話題は、もっぱら文学のこと、人生のこと、女性のことなどと、大いにはずみ、太宰さんも心地良く酔い、心から楽しそうであった。そして、にこにこ笑いながら私たちの話を聞き、ときどき、彼一流の諧謔(かいぎゃく)やユーモアを、津軽訛りのある独特の口調で語って、我々を抱腹絶倒させるのであった。
 しかし、十七歳の若い女性がいたので、我々は、話題を余り下品な方向にもって行くことは出来ず、いささか白けた空気が感ぜられないでもなかった。しかし一同は心地良く酔い、平生はほとんど飲めない堤や桂までが顔を紅く染めていた。しかし、そこまでは良かったのである。そのあと、この小旅行最大の椿事(ちんじ)出来(しゅったい)したのである。
 あれはたしか、話がたまたま神の問題に及んだときだったと思う。太宰さんや桂、池田たちはドストエフスキーの話などをしていたが、太宰さんは、「作家は、聖書を読むか読まぬかで大きく二つに別れるんだ。どうだね、君たちは読んでいるかね」と言い出した。桂は慣れない酒で顔を真っ赤にしていたが、その間に間髪を入れず「読んでます」と答え、もともとクリスチャンの家に育った堤と池田も、これに同感するようにうなずいた。しかし、聖書など全然読んでいなかった私は、いささか仲間はずれにされたような気持ちになり、また、そのころ愛読していたニーチェの影響などもあって、「先生、私は神などいないと思います」と、突然言い出したそうである。自分たちの話に突然割り込んできて、異なことを言い出した私に、一同はいささか白けて黙っていると、太宰さんは、はじめはぎょっとして私の方を見返したが、すぐに、やわらかく微笑し「神はね、なくてすむ人にはいないんだよ。神がなくては生きていけない人だけにあるんだよ。きっと、君は強い人なんだろう」と言った。だが、この「君は強い人なんだろう」というのが余計いけなかった。
 一同の聖書の話に、ニーチェの思想からかねて心酔するウイリアム・ジェームスの宗教論まで開陳に及んで、一同を大いに論破しようと考えていた私は、敬愛する太宰さんからこう言われて、この言葉をさも場違いの奴といわれているように受け取ったらしい。何だか淋しさと悲しさのようなものが胸にこみ上げて来て、「ぼくは、強くなんかないですよ」とはげしく首を振って、言下に否定した。
 「そうかね、強いと思うんだがね」と太宰さん。
 そのあとは、あまり覚えていないのだが、堤の話によると、私は「ぼくは――」と絶句したかと思うと、急に泣き出したそうである。畳に両手をつき、身をよじりながら口惜しそうに泣き出し、その泣き声はやがて号泣に近いものになったので、一同はあっけにとられたという。しかし、太宰さんだけは、身をふるわせて泣く私を、痛ましそうにみつめながら、片手で私をまねき「おい石澤君、こっちに来たまえ。泣くなら、おれのひざの上で思いっきり泣けよ」と言った。すると、私は立上がり、座敷を横切ってのこのこ(、、、、)と彼の傍まで行き、いきなりひざを崩すと、彼のあぐらに顔を埋めて、改めて泣き出したので、一同は二度びっくりしたという。そのとき太宰さんが、私の背中をなでながら、呟くように「生涯の悲しみが出たんだろう」と言ったのを、私は覚えている。その夜、私は部屋の布団の中に入ってからも泣いていた。とにかく、泣いても泣いても、何かかたまりのようなものが胸にこみあげてきて、それが半ば甘い、半ば悲しい涙となって頬をつたわった。そしておそらく一晩中泣いていたのであろう。気がついたときには、廊下の雨戸の隙間から、戸外の光が洩れており、さわやかな小鳥のさえずりさえ聞こえていた。
 この御岳行きを境にして、私はしばしば太宰家を訪れるようになった。

 【了】

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【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(新潮社、1969年)
・『太宰治研究3』(和泉書院、1996年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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