記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月10日

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4月10日の太宰治

  1942年(昭和17年)4月10日。
 太宰治 32歳。

 正午頃宿を払って帰途に着き、桜並木の植わった川沿いに二俣尾駅まで歩いてくだったという。

堤重久(つつみしげひさ)の出征壮行会の帰途

 4月9日の記事で、太宰の弟子・堤重久の出征壮行会について紹介しましたが、今日紹介するのは、その翌日。御嶽から帰途に着く太宰達のエピソードです。

 堤の出征壮行会に参加したのは、太宰と堤、桂英澄、石澤深美、池田正憲、堤の姪・紫都子しずこの6人でした。
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奥多摩御嶽にて 右から太宰、堤重久、池田正憲、石澤深美、堤の姪・紫都子しずこ。撮影:桂英澄。

 4月9日の記事では、石澤の『戦時下の太宰治と私』からの引用で当日の様子を紹介しましたが、今回は、堤の太宰治との七年間』から引用して紹介します。エピソードは、4月9日の記事の直後からはじまります。

 この事件(著者注:4月9日の記事で紹介)で、すっかり興ざめて、間もなく寝ようということになったのだが、座敷に太宰さんと二人だけになるや否や、けわしい顔つきで、太宰さんがいった。
「お前、なってないぞ。センスぜろだぞ!」
 え? ときき返そうとして、分ったので、「ハイ、以後気をつけます」と答えた。太宰さんは、石沢君の心底を観破して、紫都子しずこを連れてきた私を叱ったのだ。新宿駅での、太宰さんの眉の曇りは、こうしたことを察してのことだったのだ。私は、自分の不明を恥じた。
 二部屋に分れて、床に着いた。その深夜、多分太宰さんの高鼾たかいびきのせいだと思うが、ふと眼がさめた。なんだか、お腹が空いている。隣室で、まだごそごそ起きている二人に聞いて見ると、ぼくたちもそうだというので、密談の末、階下の台所に忍びこんだ。電気をつけ、忍者みたいに音なしの構えで調べて歩いて、水屋からは、食器類、醤酒さけびしお、箸などをとりだし、冷蔵庫からは、ハム、果物、野菜の煮つけなどをとりだし、ちゃんとお膳を囲んで、深夜の無言の会食をしたのだった。それから、跡はそのままにして、やはり忍び足で二階に戻って、何喰わぬ顔で眠ってしまった。ひどいことをしたものである。
 その翌朝、障子を隔てた廊下で、太宰さんを叱っている? 女中さんの声で眼がさめた。
「先生でしょう、あんなことをしたのは。冷蔵庫はあけっぱなし。お茶碗はころがっているし、お菜は食べちらしてあるし、眼もあてられないじゃあないの」
「なんのことか、さっぱり分らんね」
「ああら、とぼけて――。先生なら、責任もって、はっきりおっしゃって下さいよ、したなら、したとおっしゃって下さいよ」
「それなら、したことにするよ、したよ」
 急速な、あまりの大譲歩に、私は呆れながら出ていって、これこれしかじかと説明してあやまった。太宰さんは、私を打つまねをしてにらんだが、そのときの笑いを含んだ眼が、今でも忘れられない。
 正午頃、宿を払って、満開の桜並木の河沿いに、歩いて二俣尾の駅に向った。その途次、河原に出て、一休みした。
 快晴であった。三方に迫る山肌は、新緑の繁みを載せて褐色に切立ち、河原の石を洗って流れる奥多摩の水は、銀色に底を透かせて、さすがに清冽せいれつだった。微風に乗って、背後から、薄桃色の花弁が次々に飛んできて、水に吸いつくや否や、すごい速さで流れ去った。
 池田君は、紫都子しずこを誘って水際に出ると、笑声をあげながら、小石を投げて、水の切りっこをしていた。桂君は、カメラをぶらさげて、最高の被写体を求めて歩き廻り、石沢君は、はれぼったいまぶたに昨夜の名残りを留めながら、ひざを抱いて坐って、つまらなそうに対岸の絶壁を眺めていた。
 これら愛する三人の友人と、姪と、そうして太宰さんとに囲まれて、私は幸福だった。出征は六日後に迫っていたが、私は幸福だった。いや、迫っていたからこそ、この河原での平和な一時を、私はゆっくり味ってったのだった。水底を這って流れる河砂のように、私の胸底の深いところを、三鷹の女への想いが、音もなく、哀しく流れていたにしても――。
 河原に腰をおろして、四囲の景観を眺め廻している太宰さんの横にしゃがんで、私は声をかけた。
「先生は風景はお好きですか」
「当然だよ。文学作品で残るのは、そのなかの風景描写だけじゃあないかと思ってるぐらいだからね。今、空想してだんだがね、こんな映画はどうだろう。役者は、一人も出なくてね、画面には、水の流れとか、風にゆらぐこずえとか、落葉に埋まった小径こみちとか、そんな自然だけが次々に出てくるんだが、唯、横から声が入るんだ。その声はだね、男女の、ドラマチックな会話なんだな」
「感じ、分るような気がしますね」
 石の崩れる音がしたので、振向くと、十五メートルほど離れた崖下で、桂君が、いい角度で撮れる足場をきめたところらしかった。カメラを構え、三十センチメートルほど足を開いた、その学生服の立姿は、凛々しく清潔だった。降り注ぐ四月の陽光を浴びて、白く光る額の下から、黒眼がちの大きな瞳が、いくぶん眉をしかめながら、真面目に、真剣に、水辺の私たちを見つめていた。
 私は、太宰さんにささやいた。
「どうです、印象は、桂君の――」
「うん」とうなずいて、太宰さんは、小石を一つ拾って、水に投げた。
「ぼくたちの仲間では、一番しっかりしてるんですがね」
「なにが、しっかりしてるもんか。お前の友人だもの」
「でも、影はないでしょう」
「いや、影はあるね。大いにあるね。底の底の方で、やっぱり悩んでいるよ。ただ、変なにごりがない。そこがいい」
 その言葉で、太宰さんの、桂君への好感を確認したとき、シャッターの音が聞こえた。撮られたらしかった。

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奥多摩御嶽にて 太宰と堤。撮影:桂。

 この後、4月15日に、堤は上馬かみうまの東部第十七部隊に入営しました。
 太宰は、堤に「それではひとつ」と前置きをして、片膝の上で握りこぶしを一つ作って、次のように話したそうです。

「盲腸でちょっと入院する位の軽い気持で、いってくるんだな。決して、気張っちゃあいかん。無理をしてはいかん。抜駈ぬけがけの功名を立てようとしたり、卑怯ひきょう未練の脱走を試みてはいかん。何事も、軽味でゆくんだ。軽味、軽味だよ。これを守れば、また会える」 

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ―太宰治没後70年―』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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