記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】炎天汗談

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今週のエッセイ

◆『炎天汗談』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1942年(昭和17年)6月末から7月初め頃までに脱稿。
 『炎天汗談』は、1942年(昭和17年)7月11日発行の「藝術新聞」第五百七十四号の第二面に発表された。この面には、ほかに「無礼な奴」(島田墨仙)、「画人の文章」(郷倉千靱)が掲載された。

「炎天汗談

 暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいものです。パラソルをさして歩くと、少したすかるかも知れませんが、男がパラソルをさして歩いている姿は、あまり見かけませんね。
 本当に何も話題が無くていけません。()の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手さにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。
 これは、画の話ではありませんが、先日、新橋演舞場文楽を見に行きました。文楽は学祭時代にいちど見たきりで、ほとんど十年振りだったものですから、れいの栄三、文五郎たちが、その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して出かけたわけですが、拝見するに少しも違っていない。十年前と、そっくりそのまま同じでした。私の期待は、はずれたわけですが、けれども、私は考え直しました。この変っていないという一事こそ、真に驚嘆、敬服に値すべきものではないか。進歩していない、というと悪く聞えますが、退歩していないと言い直したらどうでしょう。退歩しないという事は、之はよほどの事なのです。
 修行という事は、天才に到る方法ではなくて、若い頃の天稟(てんぴん)のものを、いつまでも持ち堪える為にこそ、必要なのです。退歩しないというのは、これはよほどの努力です。ある程度の高さを、いつまでも変らずに持ちつづけている芸術家はよほどの奴です。たいていの人は年齢と共に退歩する。としをとると自然に芸術が立派になって来る、なんてのは嘘ですね。人一倍の修行をしなけれあ、どんな天才だって落ちてしまいます。いちど落ちたら、それっきりです。
 変らないという事、その事だけでも、並たいていのものじゃないんだ。いわんや、芸の上の散歩とか、大飛躍というものは、ほとんど製作者自身には考えられぬくらいのおそろしいもので、それこそ天意を待つより他に仕方のないものなのだ。紙一重のわずかな散歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりでも、はたからはまず、現状維持くらいにしか見えないものです。製作の経験も何もない野次馬たちが、どうもあの作家には飛躍が無い、十年一日の如しだね、なんて生意気な事を言っていますが、その十年一日が、どれだけの修行に依って持ち堪えられているものかまるでご存じがないのです。権威ある批評を思ったら、まず、ご自分でも或る程度まで製作の苦労をなめてみる事ですね。
 どうも暑いですね。こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。

 

絵筆を執る太宰

 エッセイの冒頭で()の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手さにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。」と書く太宰ですが、小説を書くペンを絵筆に持ち替え、実際に絵を描くこともありました。
 しかし、太宰は自身のアトリエや絵筆を持つことはなく、青年期からの友人のアトリエや、三鷹駅前に住む画家・桜井浜江のアトリエで、心を許す知人との交流中に絵筆を執り、即席で絵を仕上げました。

 

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■《久富君像》 昭和11年~12年頃/油彩、スケッチ板(スケッチ板にカンヴァスが貼りつけられている)/佐賀大学美術館蔵/180×137

 この絵のモデルは、画家・久富邦夫(1912~2010)です。
 1940年(昭和15年)11月5日の午後9時30分、「短篇ラジオ小説」で太宰のある画家の母(のちにリイズと改題)がJОAK放送されましたが、この“ある画家”のモデルが、太宰が三鷹時代以前から交流を育んだ、久富です。太宰より3歳年下の久富は、太宰と出会った頃は、帝国美術大学に通う画学生でした。
 太宰は、久富の前で酔筆を走らせることも多く、《久富君像》も、その時に描かれた1枚です。この絵は、久富の画室に終生掛けられていました。
 また、久富は、太宰の義弟・小舘善四郎とも親しく、交流がありました。

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■久富邦夫(右)と小舘善四郎(左)

 

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■《風景(小)》 昭和14年頃/油彩、キャンバスボード/156×225

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■鰭崎潤 画・太宰治 賛《風景》 鰭崎潤の下絵に、太宰が賛を寄せたもの。この頃の太宰は、鰭崎の画室に出入りし、油絵を描くことを楽しみにしていた。昭和14年頃/油彩、スケッチ版/238×330

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■《水仙 昭和14年頃/油彩/スケッチボード/270×211

 太宰の描く絵画の特徴は、一枚にじっくり時間を費やすのではなく、眼前の造形を瞬時に捉える手法にあります。
 昭和14、15年頃は風景画や静物画が描かれることが多かったのに対し、以降は肖像画が増えていきます。特に戦後はその傾向が強く、流行作家となり訪問客が途絶えない太宰にとって、絵筆を執っている時間は、気心のおける友人たちと過ごす、リラックスしている時間だったのかもしれません。

 

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太宰治、堤重久、秋田富子《他画他讃 自讃する 人もありき》 昭和17年1月/油彩、画布/日本近代文学館蔵/400×265

 3人の肖像の付近には「太宰居士像/重久」「堤先生像/治」「富子女史像/富子」と書かれている。
 額縁の裏には「昭和十七年一月、秋田富子(秋田聖子の亡母)の部屋にて、画きかけのカンヴァス上に、太宰治が堤重久の顔を画き、堤が太宰の顔を画き、富子氏が自画像を画いたもの、添書、署名は、すべて太宰が記したものである/堤」という覚書があります。この覚書を書いた堤重久(1917~1999)は、戦中戦後を問わず、太宰が一番愛した弟子と言われています。

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■堤重久(左)と秋田富子(右) 堤重久(1917~1999)は、太宰の一番弟子。太宰が一番愛した弟子と言われている。太宰の小説正義と微笑は、堤の弟・堤康久の日記を基に書かれた。秋田富子(1909~1948)は、太宰の小説水仙のモデル。洋画家・林倭(しずえ)(1895~1945)との娘・林聖子は、太宰の小説メリイクリスマスに登場する「シズエ子ちゃん」のモデル。

 

 戦後、太宰は、三鷹駅前に住む画家・桜井浜江(1908~2007)のアトリエで描くようになります。桜井は、太宰の小説饗応夫人のモデル。太宰の画才を認め、アトリエや画材一式を提供しました。

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■桜井浜江 山形県山形市出身の洋画家。1926年(大正15年)に上京後、画業により部屋が汚れると大家に嫌われ、幾度も引越しを繰り返した。三鷹に落ち着いたのは、都心に中央線一本で行ける利便性と、畑と林に囲まれ、敷地にも竹林が植えられたのどかな環境が気に入り、駅前の築10年の住宅を選んだそう。独立展に出品すれば必ず入選する娘の実力を父が認め、その父の援助により、戦中に太宰も通ったアトリエが増築された。当時は資材不足で、桜井の郷里・山形から材木を運んで来たという。

 桜井と太宰の関係は、1940年(昭和15年)頃に離婚した夫・秋沢三郎(小説家)が、太宰と同じ東大生だったことがきっかけで、はじまりました。1933年(昭和9年)、桜井は東京都杉並区阿佐ヶ谷に住んでいたため、桜井の家は、太宰や井伏鱒二など、中央線沿線に住む文化人の溜まり場となりました。
 偶然にも太宰の住む三鷹へ転居した桜井ですが、1946年(昭和21年)の暮れに三鷹駅前で再会するまで、太宰が三鷹に住んでいることを知らなかったそうです。再会以降の太宰は、親友・檀一雄や編集者・野原一夫などとつるんで、よく桜井のアトリエに転がり込みました。

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■《自画像》 昭和22年/油彩、スケッチ板/333×243

 最後に、1998年(平成10年)3月、三鷹市発行の「グラフみたか」第十一号に掲載された桜井へのインタビューを引用して、桜井から見た太宰について紹介します。

 戦後まもない頃、三鷹駅から降りてきたら、にやっとしてる人がいる。それが太宰さんだった。
 太宰さんは、以前、私が結婚していた主人の東大時代の同級生(※主人・秋沢は昭和3年に大学卒業しているため、同窓生の誤り)なので、うちにもよく遊びに来ていたから、学生時代からの友人。その頃のお客さんは変わった人が多かったけど、太宰さんがいちばん変わっていた。
 私は、離婚してから、画家になって三鷹にアトリエを構えたけど、太宰さんも三鷹に住んでいるなんて全然知らなかった。

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■《無題》 昭和22年頃/油彩、スケッチ板/331×232

 再会してからは、出版社の編集者や仲間を連れて、よくアトリエに訪れてくるようになった。気が向いたらといった感じでちょこちょこ来ていた。私はお酒を飲まないから、一緒に飲みに行くということはなかったが、私は山形だし、太宰さんは青森だから気安さがあったのかもしれない。
 一人で来るということはなくて、いつも大勢。近くの屋台かどこかで仲間と飲んでから、みんなを引き連れてダダダッと入ってくる。私、別に「お入りください」なんて言わないのに。
 貸してくださいも何もなく、私が描いている筆を取り、絵をかき始めるといった具合。人のキャンバスを使って、人の絵筆を使って、描き上げると「もう行こう」なんて、アトリエに出来上がった絵も使った画材も置いたままみんなを連れてかえってしまう。
 普通だったら怒っちゃうようなことだけど、太宰さんの場合は気にはならない。

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■《クラサキサン》 昭和22年頃/油彩、画布/336×245

 ずっと、律儀な人だと思っていた。無頼漢みたいに言う人も多いけど、自分を痛めつけても、人を傷つけるというようなことはない。人を思いやっている感じがする。「何してるのかな」なんてお茶を取りに行きながら描いている様子をのぞいてみると、私より絵の才能があると感心してしまう。好き勝手に描いて、素早くその場で仕上げてしまう。とてもいい絵だ。あれだけ文学に才能のある人は、絵にも才能があると思った。(桜井浜江・談)

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■《三つの顔》 昭和22年頃/油彩、スケッチ板/242×333

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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