記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月24日

f:id:shige97:20191205224501j:image

11月24日の太宰治

  1944年(昭和19年)11月24日。
 太宰治 35歳。

 マリアナ基地を発進したアメリカ空軍B29型重爆撃機の大編隊が、三鷹町の北部に隣接する武蔵野中島飛行機上空に現れ爆撃攻撃をした。

戦時下における三鷹での太宰

 1944年(昭和19年)11月24日、マリアナ基地を発進したアメリカ空軍B29型重爆撃機の大編隊が、三鷹町の北部に隣接する中島飛行機の武蔵野製作所上空に現われ、爆撃攻撃をしました。
 マリアナ基地は、B29で日本を爆撃できる飛行距離内にあり、1944年(昭和19年)10月28日の訓練爆撃から、翌1945年(昭和20年)8月15日未明まで、本土を焼野原にした空爆作戦数は331を数えたといいます。

f:id:shige97:20201122165938j:image
アメリカ空軍B29型重爆撃機

 中島飛行機は、1917年(大正6年)12月に創設された中島飛行機飛行研究所が前身で、9名の従業員からスタートしました。創業から30年後には20万人を超える社員を抱え、航空機の分野では三菱重工と肩を並べるまでに急成長を遂げました。
 欧米に遅れる航空技術に追いつこうと、中島知久平が一代で築いた夢の会社で、財閥で、古くから重工業の実績があった三菱とは異なり、ゼロから出発した民間企業でした。そして、1938年(昭和13年)3月、中島飛行機は、陸軍発動専門工場として武蔵野製作所を新設しました。
 三鷹に研究所の建設が始まったのは、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃の直後でした。戦況は加速し、この研究所を軸に軍需工場や研究施設が整備されていき、三鷹町は「一代軍需工業地帯」と呼ばれるまでの変貌を遂げると同時に、アメリカ軍の重点爆撃標的地となり、多くの尊い命が犠牲となりました。
 1945年(昭和20年)8月15日、日本の無条件降伏による終戦に伴い、中島飛行機も解散。航空技術で世界への飛翔を夢見た民間企業は、その歴史に幕を閉じました。

f:id:shige97:20201122171534j:image
■武蔵野製作所 紀元2601年の仕事始めを祝賀アーチをつくって祝った。1941年(昭和16年)撮影。

 戦況が激しさを増していく中、三鷹軍需産業による出稼ぎなどで人口が増加し、町民の生活は困窮を極めていきます。町会、隣組などの組織化も目まぐるしく進展し、防空訓練を実施し、配給を分け合うなど、戦時下における町内との関りは重要性を高めていきました。
 太宰も、1944年(昭和19年)10月から、翌1945年(昭和20年)3月まで、隣組長、防火郡長に就任し、早朝からの召集を3度受け、遠く国民学校まで赴いて軍事訓練を受けています。
 また、太宰が度々、作品の中で舞台にしている井の頭公園の杉の木15,000本が、軍部の指令により、空襲犠牲者の棺をこしらえるために伐採されたりもしました。

 戦時下における太宰の様子について、太宰の妻・津島美知子の回想回想の太宰治から引用して紹介します。

 病気をもつ太宰も昭和十七、十八年と戦局の進展につれて奉公袋を用意し、丙種の点呼や、在軍軍人会の暁天(ぎょうてん)動員にかり出された。暁天動員のときは朝四時に起きて、かなり離れた小学校校庭で訓練を受けた。出なくてもよい査閲に参加して思いもよらず上官から褒められたことを書いているが、それは事実あったことである。隣組を単位としてほとんどすべての生活必需物資が配給制になり、私たち主婦も動員されて藁布団(わらぶとん)を作ったり、タービン工場に乳児を負うて働きに出たりした。
 太宰はずっと和服で通してきていたので、ズボン一つ持ち合わせが無く、いわゆる防空服装を整えるのに苦心した。戦時下にも時勢にふさわしいおしゃれはある。私は来訪される方々が、よい生地の国民服を着て、鉄カブトを背負ったりしているのを見ると、どこで調達されるのだろうかと羨ましかった。

f:id:shige97:20201115205319j:plain
■1943年(昭和18年)の太宰 井の頭公園で撮影。左は、三上雪郎。三上は出征の際、太宰に日の丸の寄せ書きをしてもらったそう。

 終戦後、人に聞くと、手づるがあって食料にも衣料にもほとんど不自由しなかったという人、また適齢期の娘のために相手もきまらぬ先に早々婚礼衣装や調度を整えたという人まであって、あらためて自分の戦時下の窮乏生活が顧みられたが、当時私たちは買いだめの余裕もない上、どうにかなると安易に考えて暮らしていて、毎日食べてゆくのが精一杯で、何より大切な防空対策や、疎開について全く無策であった。これは空襲、外敵浸入の体験を持たぬ国民一般に通じることでもあった。しかし用心深い人や、つてのある人は次々と地方に疎開していった。私たちは、私の実家のある甲府市三鷹よりも危く思われたし、太宰の生家には太宰から、大切な物だけを預かってもらいたいと依頼状を出したが、返事をもらうことが出来なかった。三鷹の家のまわりにはまだ林や畠が広々と残っていて、私たちはこのへんが、まさかねらわれることなどないだろうと、タカをくくっていた。そのころのはやり言葉の「希望的観測」の典型であった。防空演習に集まるようにと指令があったのだが昭和十九年の初めであるが、指導者がいるわけでもなく、ただ近隣の主婦たちが集まって雑談しただけで、真剣に空襲のことを心配している様子は見えなかった。三鷹にも軍需工場がいくつもあって安全どころではなかったのに、空襲警報のサイレンが鳴り出すと私たちは家の前の空地に掘った申訳ばかりの防空壕に入って小さくなっていた。押入に首をつっこんで急場をしのいだこともある。ラジオがないので太宰は始終三畳間の窓から上半身をのり出して近隣のラジオの伝える情報に聞き入っていた。

 

f:id:shige97:20201122175910j:image
■自宅縁側で娘たちと 長女・津島園子と次女・津島里子と一緒に。1948年(昭和23年)撮影。

 

 昭和十九年の九月から子供が二人になった上に、隣組長と防火郡長の番が廻ってきて、私の負担は一段と重くなり、一層緊張して動き廻った。近くの小学校分教場で隣組長の集会があって出席していたとき空襲警報が発令されて直ちに会は解散、家路を急ぐと、向こうから外出していた太宰がやはり急ぎ足で帰ってくるのと、ばったり会って、家に帰ったからといってなにも安全なわけでもないのに、人間やはりこんな場合には家にひかれるものなのかと思ったことが忘れ難い。つまり戦争が太宰を家にしばっていたのである。

 

f:id:shige97:20200725183241j:plain
■太宰と妻・津島美知子

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】