12月16日の太宰治。
1946年(昭和21年)12月16日。
太宰治 37歳。
十一月二十四日、十二月九日、十二月十六日付で、
太宰「校正お世話になります」
今日は、1946年(昭和21年)11月24日、12月9日、12月16日付で、太宰が、一番弟子の
堤は、戦中戦後を問わず太宰が一番愛した弟子と言われます。終戦後、太宰は疎開中だった故郷・金木からの次の居住予定地の1つに京都を挙げましたが、それは堤の存在あってのことかもしれません。
堤は、1944年(昭和19年)6月以降、妻・堤貴美子と共に東京を離れ、京都に疎開しましたが、太宰は金木に疎開中も、頻繁に堤と書簡のやり取りをしています。堤が太宰と再会を果たすために上京するのは、1947年(昭和22年)12月のことでした。
1通目は、1946年(昭和21年)11月24日付のハガキです。
東京都下三鷹町下連雀一一三より
京都市左京区聖護院東町一五
堤重久宛
拝復 十四日にこちらへ移住しました。それから客と酒と客と酒、あすから雲がくれして仕事をはじめるつもりです。
印税は、再版のものですから一割でいいでしょう。それから印税の内、三千円くらい新円で、出版の約束のしるしに前払いするのが、東京の出版社の常識になっていますから、そのようにかけ合ってみて下さい。
引越し貧乏というが、移住には実に金がかかる、家財道具もまた新しく買わなければならないし、少々困っていますから、早いほどよい。あとの印税はもちろん出版後でいいのです。「冬の花火」は十二月東劇でやるようです。 不一。
このハガキが書かれたのは、太宰が故郷・金木町での1年3ヶ月半の疎開生活を終えて三鷹に戻り、ちょうど10日が経った頃でした。
堤は、太宰の口利きもあり、同年7月頃から、京都市東山区新門前梅本町「東西」編集所の貴司山治の下で編集手伝いをすることになります。その関係で、太宰に創作集発行の打診があり、太宰は、1942年(昭和17年)6月10日に「新日本文芸」叢書の1冊として錦城出版社から刊行した書下ろし中篇小説『正義と微笑』の再版を提案します。
『正義と微笑』は、前進座の俳優だった堤の弟・堤康久の日記を素材にして書いた小説でした。
■太宰と堤重久
2通目は、1946年(昭和21年)12月9日付のハガキです。
東京都下三鷹町下連雀一一三より
京都市左京区聖護院東町一五
堤重久宛
校正お世話になります、よろしくたのみます。字母の無いのは、いたしかたありませんから、ひらがなにして下さい。反芻 は、反芻 でよろしゅうございます。きょうから家のバクダンでこわされたところを直しに大工が来ています。お金がかかってやりきれないんだ、印税の件はどうか一日も早くたのみます。雲がくれとは、近くに別に一部屋を借りて、べんとうを持って通勤するのです。でも寒くて欠勤つづきであります。この頃そくたつも普通で出します。
金木から帰京した太宰のところには「客と酒と客と酒」と、太宰の帰京を待ちわびた来訪客が後を絶たなかったようです。新潮社の編集者・野原一夫が『斜陽』執筆依頼のために訪問したのも、ちょうどこの頃です。
太宰は、執筆に集中するため「近くに別に一部屋を借りて、べんとうを持って通勤する」、いわゆる「雲がくれ」をすると書いています。太宰は、三鷹に戻ってから玉川上水で心中するまでの1年7ヶ月の間に、6ヶ所の仕事場を転々としながら執筆活動を行いました。
太宰がここで堤に話しているのは、同年11月25日から約3ヶ月間「雲がくれ」していた中鉢家のことです。太宰は、辞書や弁当を黒い風呂敷に包んで、朝の9時頃から3時くらいまで仕事をすると、近くのうなぎ屋・若松屋に行ってお酒を飲むのが日課でした。この中鉢家では、『メリイクリスマス』『ヴィヨンの妻』『朝』などが執筆されました。
■太宰の三鷹の住居
3通目は、1週間後に書かれた、1946年(昭和21年)12月16日付のハガキです。
東京都下三鷹町下連雀一一三より
京都市左京区聖護院東町一五
堤重久宛
拝復 校正を一生懸命でやってくれているようで深謝しています。実は、あの句読点その他誤植表を金木にいた時に書いて、君に送ったのですが、君からその正誤表に就いては何も言って来ないので、気になっていたのです。途中で紛失ですね。それから「鷗」の到着ならびに感想もすぐ書いて送ったのですが、それも不着とは、何者のワザか知らないが、実にクサリますね。忍の一字かね。句読点は、全部ツケて下さい。兇もそうして下さい。君の勘で全部やってごらんなさい。「鷗」は、わるくないが、発表はむずかしい事情があります。いずれゆっくり申します。印税是非タノム。 不一。
太宰は、再三にわたって堤へ印税を催促する理由として、新しく揃える「家財道具」や「バクダンでこわされた」家の修理費を挙げていますが、太宰と共に金木から帰京した妻・津島美知子は、著書『回想の太宰治』で次のように回想しています。
下連雀の爆撃以後、太宰はこの家のことを「半壊だ」と言う。今まで気にかかるので何度も念を押して聞いたが「半壊だ」としか言わない。ところがいま眼前のわが家は、そして入って見廻したところは、大した変わりもないように見える。私はなんのことやらわからなくなって「これで半壊ですか」と言った。太宰は知らぬふりをし、小山さんはうす笑いを浮かべて、その表情で――だまされていればいいのですよ、と私に語っていた。
■太宰と妻・津島美知子
【了】
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【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・三島由紀夫『大陽と鉄・私の遍歴時代』(中公文庫、2020年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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