12月15日の太宰治。
1928年(昭和3年)12月15日。
太宰治 19歳。
十二月十五日付で、弘前高等学校「校友会雑誌」第十三号が発行され、「
『此 の夫婦 』
今日は、太宰が弘前高等学校2年生の時に、「校友会雑誌」第十三号へ、本名の津島修治の署名で発表した習作『
『
此 の夫婦 』
ほこり と弟、腰を浮せる機会 を先刻 から待ってたかのように立ち上がり、ふいと窓の外に眼をやって、――とみるみる太い眉を晴れ晴れと、おし開き、
「ほうら、来た」
まあ、どちらかと言えば下戸 の弟、それを相手に、自分で許 りちびちびやって居た光一郎、とろん ともう――いい加減すわって来だした大きな眼 に流石ほっ とした色も見せて、窓際へ膝行寄 りざま、
「どれどれ」
ほんの今しがた、激しい驟雨 があがったばかりで、犬ころ一匹出て居らぬ、でも真昼の裏通り。空気も何もあるものか、ただもうからり として、街路はしっとり と重たげだった。黒々と湿った土と、きっちり並んでつやつや光って居る家々のトタン屋根とが、とても嬉しい映り合い。其処に持ってきて点々と街路樹が、――塵一つ残さず洗い清められた深緑の葉からぽとぽと雫を滴らせながら、姣麗 な公達 の如く立って居た。
すぼめた蛇目の水を、片手でしゅっしゅっと切りながら、水溜 をひょいひょい 飛び越えて歩いて来る妻の小さな姿が、はるか向うの街路樹の蔭からぽっかり浮んだ。洗いざらしの市松のゆかた、その元気な褄 さばきで、ちろちろ踊る白い素足は又莫迦 に可愛かった。
「あれで、とても澄まして歩いているんだよ」
光一郎は心から幸福そうに、囁いた。
「ふん」
弟の龍二も思う事一つ無いようにうっとり と微笑んだ。
「まだ、こっちに気が附かないんだよ。呼んでやろう。おおーい」
と間の抜けた呼び声を掛けながら早速のお道化、袂 から探り出した手巾 を、右手 高く揚げ、忽 ちさっさっと振り始めた。いかに酒の気を借りて、とは言え、可成り恥しいには違いなかった。顔を真赤にほてらして、てれ隠しにくっくっくっ と笑いこけ、――それでもなんでも手巾 振る手だけは下さなかった。龍二も嫌な顔せず愉快そうに笑うて呉れた。
妻は、もうすぐ其処に来て居る。これもやっぱり、顔をぽっと染めて、
――馬鹿ねえ。
と言わんばかりに口をちょいと突 がらし、いやいやを二三回して見せた。だけど眼尻は、眼尻は楽しく笑って居るのだった。何とも言わずに、ちょこちょこ表の玄関に廻って行く。…………
男だけに成って了 うと二人の気持は、急に白け出した。兄はクルリと部屋の方を向いた、とたん、窓縁 に腰を掛けて居る弟と、がっちり視線が合うた。ばつ が悪そうにクスッと笑って、手にしてた手巾 を、そそくさと袂 につっ込みながら壁に背中をどしんと靠 たせ、ふっ と考え始めた。弟も、じいっと外を眺め、口をきゅっ と引きしめて何やら物思う風情であった。
だちだちだちと、雨滴 れの音がしっきり無しに聞える。…………
なんぼなんでも、女房には聞かせ度 くない話だったので、何とかして場を外して貰おうと、一人でやきもきした挙句、思い出したのが先日の妻の言葉。
「フィルムが無くなったから、写真師も当分休業」
そこで光一郎は、弟とも、もうお別れだし一緒に記念の写真をとって呉れと懸命に真剣を装いながら妻に申し出る。フィルムが無いの、と妻が心から気の毒そうに言う。じゃ買っといで、と難なく妻を追い出して、
「さて」
と、改って弟と膝をつき合わせたのだった。
流石に二人はぎくしゃく して居た。龍二にとっても、これが彼の学生として帰省した最後の夏でもあったからには、兄のこれから自分に話そうとして居る事に就いて、荒々見当の附かぬ筈は無かった。
「発車は四時だったねえ」
「あれあ、東北本線でしょう?」
別に一々その返事を待つでもなく、光一郎は其んなことを呟き呟き、台所に立って行って、暫くとことこ 棚を捜す音などをさせウイスキーの大瓶に、アスパラガスの缶詰を添えて、持って来た。ぺたんと座って二つのお茶飲にウイスキーをちょろちょろ零し、弟にも勧め、自分もちぇっ と吸いながら、
「いいえね、あんたも来年は卒業でしょう。だから、まあ、今のうちに、言うべき事は言うて置かないと…………」
龍二は白ズボンのがっちり した両膝頭に眼を落し、神妙 にかしこまって兄の話を承って居るのだった。光一郎は、弟の其んな生真面目さを憎んで見たりしながらも、言い苦 そうに口を歪めてぽつりぽつり語り出したのだ。
つまり、――自分はけち な売文業者で、御覧の通り何一つ財産らしいものが無い。あんたにも立派に分家させたいとは思うて居るけれど、これではどうにも仕様がない。何もまあ、こんな兄貴を持ったのを因果と諦め、兄貴なんかを頼りとし ず、学校出たら、あんたの腕一つでもって好きな事をやって呉れ。こっちも出来る限りは手助けしよう。それに不満があるか、あったらどしどし言うて呉れ。僕に出来るだけの事なら、何でもしてやろう。――と言うたのだ。なんとか不服を称 えるだろうとは覚悟して居たが、弟がふうむ と考え出したのを見て居ると、余 りいい気もしなかった。だが、そんな気持はおくび にも出さず、ニコニコしながら、どうだ、あるだろうねえ、それあ。と軽く先手を打って、やんわり返答を迫って見た。だが併 し弟は、意外にも、いや結構です、不服は無い、と、きっぱり言うのだ。驚いて、へーえ、本当かい、嘘じゃないだろうね、と思わず奇妙な駄目を押した程だった。所が弟のいよいよ四角ばっちまい、
「僕、僕、学校を卒 えさして貰うだけでも兄さんに感謝し ねばならないんで……」
なんぞと、吃 り吃り述べるのを聞いて、光一郎の胸には突然こう、興ざめがしたって感じがはらはら起って来た。一口に言えば、弟の寧ろ気障な位の律儀がいやらしかったのだ。
「いやいや、そう言われれば、こちとらは、尚更面目ございませんが……」
と弟に、思わず言いかぶせる彼自身の幇間 じみた挨拶にも、光一郎はぞくぞくする程の嫌悪を覚えるのだった。ひょいと浅間しいって感じが頭を擡 げ、――次に「妻を売った」という意識が思いも掛けずむくむく起って、こいつは又ピリリと実に烈しく彼の心を刺して了 ったのだ。
――ふうむ、妻と分家と取っかえっこか。
昨夜のことをまざまざ脳裡に画 き出しながら、ごくんごくんと二三杯、息もつかせずウイスキーを喉に押し込んだものだ。ただもう堪らなくいや だった。
――あああ、や だや だ。
と心の中で泣きながら、
「ねえ、まあ、そうと話がきまれば、もうお互いにこれ以上べんべん言い合ってるのも気が利かないし、此の話は、これで切り上げましょうね」
と言い終ったら、酔が一時にぐいと来た。彼の癖で酔えば無性に人が懐しかった。
――それにしても、妻はもう帰って来ていい頃だ。第一これから弟と二人でまじまじと鼻をつき合せて、何をするっていうのだ。これあ、とても堪らない。
そこで今迄の切なさを酔でどうやら紛らわし、人なつこく弟を相手に、これは又とんでも無い長談義。
「それあもう僕は、あんたが何 う考えてるか知れないけれど、大した偉い男でもなし、又これ以上出世の出来る男でもござんせぬ。どうせ、ちゅう ぶらりの――早い話が、まあず芸人でさあ。だが僕という男はね、今迄三十有余年の生活を振り返って見て、――ですね…………」
油気の無い長い髪を、ばさっばさっとゆさぶりゆさぶり、くどくどと喋り捲 って行くのを聞けば、要するに彼は彼の半生に於いて、自分の思う通り、勝手な振舞いをして来た、と言うのだ。――故郷 の或る若い芸者に惚れ、世帯を持つの持たぬのと言っては、父をかんかんに怒らせた。翌年父のぽっくり死んだを幸い――何という不孝な文章だ――大学当時もう東京で其の女と一緒に家を持ち、大学を出ると、母が涙ながらの強意見 もなぐさみに、へへんと、鼻であしらって聞き流し、母の殊に、わけも無くいやがる売文の仕事にのめのめと取り掛かったのだった。東京も厭 きたを楯に数十里北の故郷へ立ち退き、散々母をつらがらせて夫婦両人 が気儘 な生活。それから三年経ち、母も親爺の跡を追い、残った子等は先代からの借財に、とうとう古巣を捨てて、今の小さな家に住居 し ねばならなく成ったのだ。
元来この家は、さる物持の納屋であったのを光一郎が進んで買い受け、色々と造作し直して、どうにか八畳の部屋一間、それに続く一坪位の台所と、ぞっとする程粗雑な便所とをしつらえる事が出来たのだ。それも、玄関の式台に上ると障子一枚で直 ぐ八畳の部屋につっかかるのだから、不用意にも其の障子を開けて置くと、部屋の中は格子戸 越しに往来からまる見えであった。床間 こそ無いが、部屋は割に小じ んまりとした普請 だった。けれども何さま、この他に部屋と名の附くものは無し、というのだから、随分ゴタゴタたて込んで居た。おかしく凝った洋風の開き窓の下には光一郎の大きな蒼然たる机、それから彼の本箱、妻の箪笥、鏡台。さては衣桁 、茶箪笥等で、とんと劇場の楽屋であった。窓から西日が入るので畳は思いなしか、早く焼けるようだったし、其の上、何と無くまだ納屋臭くじめじめして、その故 かどうか判らぬが、妻は毎春きまって脚気 をやって居た。
そんな生活はして居ても弟だけはどうやら大学迄しこめたが、かく言う彼自身は文字通りの雑文豪。現に二三の怪しげな雑誌に、卑猥な、うそ寒い連載ものを書いては、お恥かしい程の稿料を稼いで居るのだった。
だがそれでも兄は、一向構わぬと言うのだ。もうもう浮世には疲れちゃったし此の上生活意識をどうのこうのも凄 じい。けち な野郎さ。と淋しく笑いながら兄は、まだしゃん と座って膝一つ崩さぬ弟をじろり眺め、
「でも僕は、そんな生活をして来たのを、ちっとも悔んでは居りませぬ。あんたにはとても 無茶な、愚かしい事とも思われましょうが、それとて僕は僕なみの確固たる――確固たる信念を以てして来た事なんで……」
例の信念論に危く及ぼうとしたが、ふいと気を変え、今度は思いなしか語勢を強め、
「一体、世間態なんてものを気にしてたら……」
と、やり出した。これは実の所、兄がそれと無く弟に当て附けて言うて居るのだった。弟の誠に個性のぼんやりした、そして所謂悪堅いのに、兄は何時 も苛立たしさを感じて居た。何一つ道楽があるわけでも無し、毎日毎日兵士のように素晴らしい几帳面な生活をしているにも不拘 、試験下手な故 か、他の友達よりは二年遅れて大学に入ったので、汗を拭き懸命に友達の後を追い駈けて居るのだ。あんまりいじらしい もんで、
「学校なんか、どうだっていいさ。ちっとは遊んでも見ろよ」
と酔うた紛れに、こっそり良くない事を勧めたりした時も実は再三ならずあったのだ。だが其んな場合には、弟は耳迄真赤に染めながら――僕、兄さんと違って頭が悪いから、そんな事は出来ぬ。少しでも立派な肩書とって、それでめし を食うより他に、しようが無いのだ。だから、なんでもかでも、学校を出来るだけいい成績で出て、――と極 ってこう言うのだ。そう言われると兄にもやっぱり何だかぐっ と来た。そうか、と一応は合点合点して見せて、さて、それから愈々 彼の得意な奇論に入るのだ。半 ば弟を慰めたい心意気、半 ば彼自身の立場を弁護したい下心。つまり、こうだというのだ。
一口に自分を芸術家と呼んで、頭のいい奴、凡人には出来ぬ技と、きめて了 って居るのが癪 でたまらぬ。自分はこれでもまずまず芸術家の端くれだろうが、別に其れを以て内心傲色 のある訳じゃ決してない。自分に若 し大工の能力があれば、喜んで大工もしよう。今の自分のこんな商売に比べて、どんなに幸福なものか判らない。だが悲惨にも自分には大工は愚か、あんな大臣の職業にただ堪え得る能力がないのだ。文章を売るという能以外には全然低能さ。しかたが無いから、これに後生大事と縋 り附いて居るのだ。恐らくは現代の多くの芸術家もそうでは無いだろうかな。別に彼等の書くものが、世界にまだ無い逸品である訳もなく、一千年以前にもう誰かがちゃんと十倍も立派にものしてあるし、万々一、東西古今に亙 って未だ曾 て試みられぬ或るものが不思議にもあったとしたならば、其の時には自分が書く迄もなく、他の誰かが必ずそれをやりのけるだろう。ダ・ヴィンチが生れなかったらルイニあたりがダ・ヴィンチの為した仕事を其の儘 やり遂げたかも知れぬ。ダ・ヴィンチがよし一つの作品を画 かなかったとしても、我々はだから少しも迷惑を感じないんだぞ。――
なあんて所迄窮論すれば、もう聞き手は皆げらげら 笑って了 い、仕方が無いから彼もげらげら し始めて、此の熱弁もどうやら無事に鳧 が附いちゃうのだった。
だが今の此の場合に限って、不仕合せにも様子が少し違って居た。それは、弟が、兄の世間態攻撃の真最中に、首を傾げながら慎ましやかに口を出したのである。
「でも、自分の都合許 りも考えられない場合がございますからねえ」「なに」
と思わず気負って大袈裟に、一膝乗り出したら、――折も折、沛然 と夕立が。
怖ろしくも四面水に囲まれた薄暗い部屋の中に、二人は其のまんまの姿勢でもって、深く何やら案じ始めた。――五分も続いたかしら、忘れたように雨があがった。
――やはり、あの事を言っているのだ。弟はあれを考えて居るんだ。
そう思ったら、腹立たしいよりも寧ろ弱気な淋しさが、さらさらと彼の身を包んだ。もう一刻も此の部屋の空気に我慢出来なかった。
――誰でもいい。早く、早く、この部屋に入って来て……。
其の時だ。何という歓喜! 妻がばかに澄まし込んでぽっかり現れて呉れたのだ。
両人とも涙のにじみ出る程嬉しかったに違いない。其れでこそ兄はとうとう手巾 迄振ったりして……。
玄関の格子戸をカランと音させたかと思うと直ぐ部屋に駈け込んで、まだ頬に血を上せながら、
「お止 しなさいよ、あんな事。とし甲斐もない」
と立った儘 。
「やああ――」
訳の判らぬ受け答えをして置いて、楣間 なる自筆の横額、「巧笑倩兮 、美目盼兮 」に眼を放 りながら、うらうらとなごやかな気分に浸って居た。………………
「フィルム買って?」
「ええ、アグファ、こないだのと同じいの」
「じゃ撮って貰いましょうか」
まさか、先刻のはお前を追っ払い度 い許 りの出鱈目さ、とも言えず、弟にも目くばせしてのっそり 立ち上った。
色々なポオズで一時 に八枚もとられちまった。その間も、しょっちゅう三人がきゃっきゃっと子供見たいに巫山戯 ちらして居るのである。妻は妻で、こんな事を言っては兄弟を笑いこけさせる。
「序 だから印刷紙も買おうと思って、値段を聞いたの。たら、五十銭だって。随分安いでしょう。まあ安いのねえ、ほんとうに安いわ、なあんてやたらに誉めながら、おあし払おうとしたらおあしが無かった」
光一郎は又、両眼をとろり と嫌らしく据え、
「そうだ、いい表情だろう。記念写真、女房も惚れ手の数に入り、っと」
妻も早速まじめくさり、
「記念写真、ここにも不憫 な男居 り」
と低く呟いて、おくれ毛をうるさそうに搔き上げ搔き上げ、慣れた手つきで仔細 らしくピントを合せながら、
「あなた見たいな顔、それこそ上野の動物園なんかで、ざらに見受けられるわ」
「ああ、あそこじゃよく、俳優なんかが散歩してるようだね」
こう言えば、
「ええ、だけど、………駱駝 も居るわ」
もともと少し抜けて居る所が気に入って、愛し始めた女ではあったが、なんと言っても以前の商売が商売だけに、へらず 口許 りは光一郎に劣らず叩いて居た。写真がもって生れた道楽で、商売してた時から、もうとっくにやり出して居た。今じゃ口の悪 い光一郎に迄、「うまい、うまい」なんて、薄気味わるくもほめられるような傑作を、時々はものするように成って居たのだ。
■太宰の最初の妻、小山初代
ほんとうに黙って居れば、よかったものを――光一郎の要らぬ
おせっかい から、折角いい按排 に盛り上げられた陽気を再びぺちゃんこに崩しちゃった。
全体光一郎は、若い時から、どうかして自分の気に食わぬ時は、喧嘩して迄それと争うても見たけれど、そうで無い限りは出来るだけ人を楽しがらせたい、という変な趣味 を持って居た。別にこうという野心もないのに、人の気嫌を伺ったり、人を慰めたりするには実にそつ が無かった。友達から洗練された男だのなんのと言い囃 されて、「そう言えば――」なんて本気に自惚 れて見た事も確かにあった。時々は我と吾 身中に介在する幇間的分子にうんざりして甚だ参って了 う事もあったが、とにかく此の趣味の依って来る所は、自分の人一倍強い勝気の裏側に、いつもこびり附いて離れないうら 悲しき弱気であるとは、十も合点百も承知だった。現在血を分けた弟をさえ、「あんた」なんぞと呼びつけてるし、いつかも女房を彼の鳥渡 した悪ふざけからぷんぷん怒らせ、成程罪 はこち に有ると思うた故 、二日続けて亭主が御飯をたいて差し上げた思いですら持って居た。
そんあな奴らだったから、今も今とて又いらざるさし出口。
「まだ時間があるから、龍二さんに現像して見せたげろよ」
ちょいと聞けあ、なんでもない話。
「ええ、じゃ――あなた、お酔いんなすってらっしゃるから駄目だし、……龍二さんに手伝って貰うわ」
尤 もな答である。
「うむ、どうでもいい」
光一郎も何の気なしにそう言う。
「龍二さん、助手」
妻は、世の中のいやしくも先生と名の附く先生が皆よくも忘れずに持って居るあのどうも滑稽な横柄さでこう命じ、何となく渋る弟のお尻を気軽におしながら、これは又ごたいそうな暗室――ごみごみした押し入れの中に潜 り込んで行った。
それだとて兄は平気であった。
まことに彼の妻は、俗に言う色気の乏しい、がさつ な女だったのだ。あれはいつだったかしら、妻が銭湯で、昔の友なる芸者連から、夫の情事を聞いて来たと言い、他人事 のように酒唖 酒唖 ( ) しながら真顔で、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「あなたは割にもててるのねえ」
なんかん抜かす女であった。変ってる所と言えば、それと、――どこと無くぼんやりしてて、妬心 ( ) なんぞと気の利いたものは酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 芥子粒 ( ) 程も持ち合わせがなかったのと、それからまあ、言うてみれば、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 玄人 ( ) 上りらしい仕草の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) いやみ ( ) がこれぼっちも見えない点、もう一つ、女にしてはユウモアがよく判るのと、まずそれだけだった。あとはもう、そんじょそこらの山の神とつまる所は同じ事、此の男と一緒に成ったから一緒に居る、とりわけ好きでもないが、又酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 万更 ( ) 嫌でもなく、喧嘩もすれば接吻もする、かてて加えて酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 世故 ( ) にたけた恐ろしい現実主義者で、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「便所はもう、汲 ( ) まなきゃ駄目ね」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
と、結婚してまだ数ヶ月経つか経たぬかの頃、顔も赤らめずにぽんぽん言いのけた程の女。だけど彼女のあのユウモラス・ネエチュアが時折偉大なナンセンスを発見して来ては、彼を抱腹絶倒さして呉れるので、どうせ腐れ縁にはちがい無かろうが、たまには、縁は異なもの、という感じも味えたし、彼は又彼で、もう大概自分に愛憎づかしをして居るのであって、こんな男とも一生涯連れそうて呉れるのか、と内々 ( ) 妻をいじらしがったりして居たし、とにかく今迄の所では、まあ大した酒唖 ( ) 酒唖 ( ) こんぐらかり ( ) も無く暮して来たのに…………。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「ちょいと、あなた、此の襖の隙から光線が入って駄目だわ。どうにかして下さいな」
「へえ、へえ」
剽軽 ( ) に酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 畏 ( ) まって、即座に自分の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 兵児帯 ( ) をぱらり酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 解 ( ) き、押し入れの其の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 個処 ( ) にずんと差し込んだ。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「これで、ようございますか。先生」
「よろしい」
思いも設けぬ弟の声であった。こんな巫山戯 ( ) は決して言わぬ弟だったから、兄の胸には異様にピンと響いて酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 了 ( ) った。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
そいつがきっかけ ( ) で、仕合せと今迄忘れかけて居た先刻のあの酒唖 ( ) 酒唖 ( ) もの ( ) 悲しさが、又ひたひたと襲うて来たのだった。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
――自分の都合ばかり考えられぬ。そう言うたな。弟の奴、世が世なら――よしんば相手が兄貴の女房であっても、好いた同志だ、一緒に逃げちゃうんだに。とでも考えて居るんだろ。――だが女房の素振を見ると、…………
――あいも変らず、サバサバして居る。第一、弟と仮にもそんな事があったもんなら、まさか又、二人して、現在亭主の前でのめのめ押し入れの中に入るのも馬鹿げて居る。「その手代 ( ) 、その下女昼は物言わず」で、意地にも、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) そっけ ( ) 無くして居らねばならぬ筈ではないか。……………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
そんな風に否定すればする程、皮肉にも彼の眼前には昨夜の惨めな場面が、チラホラ次から次へと映って来るのであった。…………
………………そうだ、あれは何と言ったって、赤城の手紙が良く無かったのだ。
光一郎達は、その夜が弟と一緒に夕餐 ( ) を戴く最後でもあったし、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 約 ( ) やまながら、二皿三皿の時節の肴物に、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 羹 ( ) なんかの馳走もあり、久し振りで家庭的の潤いの中に浸って居ると、妻が夫の御飯をお附けしながら、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 何時 ( ) もに似合わぬまずい事を言い出した。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「あのねえ、お向いの小母 ( ) さんね、娘さんと月々の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) よごれ ( ) の日がいつもちゃあんと同じなんですって」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
弟は努めて無関心を装いながら、黙って居たが光一郎は怒って了 ( ) った。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「いやだ。畜生道じゃないか」
余りに其の語調が激しかったから、妻も鳥渡 ( ) 酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 呆気 ( ) にとられたという型であった。それから三人はよほどの間酒唖 ( ) 酒唖 ( ) じっ ( ) として居たのだった。…………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
――まざまざ見たるウ畜生塚ア――
なぜか其んなひとくさり ( ) が酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 懐 ( ) い出され、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 暗澹 ( ) たる気持がしてならなかった。今に何か不吉な事が起るぞ、という様な前兆らしくも思われた。そこに来たのが赤城の手紙だった。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
自体、光一郎の所に来る手紙には陸 ( ) なものがなかった。酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 殊 ( ) にも友達からの手紙は、必ず何かの手段で彼を不快がらせた。今度なにがしの社に入りました、とか、今日はこれこれの雑誌に原稿を頼まれました、とか言うて彼を羨ましがらせるものはまだ我慢のしようも有るが、金を貸せの、もっと酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 凄 ( ) じく成ると、彼の生活態度を非難したりするものさえ、ちょいちょいある程だった。ただもう、浮世の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 刺戟 ( ) を避け避け暮して居る彼にとっては、どっち道甚だ有難からぬ酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 代物 ( ) ばかりだった。とりわけ赤城からの手紙は今が始めてだったが、その男は世に言う唯物論者で、此頃実際的の運動にも参加して居るとは光一郎も薄々聞いて居た。――要するに現在の彼にとっては最も疎ましい種類の男であった。光一郎とて大学時代は、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 一端 ( ) の社会主義者を気取って、赤城なんかとも行動を共にして居たし、再三学校を追い出されようとした事も有るにはあったのだ。所が、其の頃つまらぬ事で或る中年の職工と口論をした揚句、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「てめえは、どうせプチ・ブルよ。へん、人道主義にぽさんぽさんと毛が生えた奴さ。まあ、俺達の運動の邪魔だて許 ( ) りでも、しっこ無しさ」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
とか、なんとか言われて此の方 ( ) 、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「うーむ」
と、すっかり考え込んじまった。で、ふらふらして居たら、恋愛の問題が起って、とど結婚しちゃった。
こんな事を言ってたのはスチブンソンで、なかったかしら。
「独身時代には殺人罪をも敢 ( ) えて辞さない見上げた男であったが、結婚しちゃったら、一ペニイの金さえ出し酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 吝 ( ) みするように成ったじゃないか」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
まさに其の通りであった。女房と二人で、一千金の金があったら、私は又東京に行きたいわ、いや俺は貯金 ( ) る、なあんて言い合うように成れば、唯物論者的弁証法もなにも、あちらから酒唖 ( ) 酒唖 ( ) さっさ ( ) とお尻をからげて退却して酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 了 ( ) った。けっく幸いと、又々さし障りの無い人道主義に逆転し、時たま、妻の態度に不満があったりすると、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「まあ、お前もよく自己清算をして見るんだな」
なんて言う事に依り辛うじて、以前執った杵柄 ( ) の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 片鱗 ( ) を示して居た。今じゃ、生きて居るから生きて居る。これはこうゆうもの、あれはああゆうもの主義で、死んでもいいが、自殺の陳腐さがいやだなんぞと、それで芸術家らしい酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 生 ( ) 言うお蔭で、ぐずりぐずりと病死を待って居らねばならぬ破目に在った。お向いの子供から毎月或る少年雑誌を借りて読んで居たら、其の雑誌社から愛読者に成れっていう手紙が来た。例の「愛読者になりそうなお友達を本社にお知らせ下されば特製酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 画 ( ) はがき」に釣られて、其のお向いの子供が麗々、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 小山光一郎 ( ) と書いてやったのだろう。これは今に至る迄、妻の笑い草で、とんだ恥を掻いちゃったものだ。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
そんな生活に赤城の手紙は、可成り迷惑なものであったに違いない。少なからず躊躇 ( ) したが、思い切って読んで見た。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
果して。
主に、――先月だか、先々月の終り頃だかに、赤城の紹介状を持って来て、光一郎に宿を乞 ( ) うた高田とかう赤城の同志を、彼が酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 膠 ( ) なく追い払ったことに対して、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 譟譟 ( ) と非を鳴らして居た。だけど、あれは第一、お酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 宿 ( ) するにも其んな部屋が無かったし、妻が顔色を変えて反対するし、にっちもさっちも仕様が無かったのだ。しかじか、かようと、よく其の高田なる酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 尾行つき ( ) の男に含めてやった筈なのに、と思えばむかむか腹が立った。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
君は無意志の生活をして居る。犬はよく無意志の生活をする。とも書いてあった。
「へへん」
彼も不貞腐 ( ) って、皆迄読まずに引き破ろうとしたが、余りにも明らかなその種の虚勢に気がさして、其の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 儘 ( ) ぽんと机の方に投げてやった。…………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
それから三時間も経ったかしら、光一郎はさる料亭の部屋の隅っこで二人の若い芸者と一塊 ( ) に成り、正体も無くわっしょいわっしょいと押し合いをして居た。………………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
………………酔がしんしんと醒めて来れば、――それは此頃に成って大変に目立ってきた事だが、世帯じみた帰心が矢竹に逸 ( ) り、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 匆匆 ( ) と妻の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 許 ( ) に駈けつけた。流石に酒唖 ( ) 酒唖 ( ) ばつ ( ) が悪そうに、こっそり部屋に足を踏み入れたら、ぎょっとした。何やら酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 狼狽 ( てふためいた様子で、怪しく動揺して居る部屋の空気を感じたからだ。…………青蚊帳 ( ) ごしに酒唖 ( ) 酒唖 ( ) すうーっ ( ) と弟の顔を覗いて見た。……………………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
かつてこれ程の不安を感じた瞬間があったろうか。…………
他に部屋が無いので、弟のたまに帰省する時には、彼のいやがるのも無理に、同じ部屋に寝かせ、彼が必ず夫婦の方にくるりと脊中を向けて寝るのを、
「変に気をきかせなくてもいいんですよ」
と夫婦の方から、ずばりずばり弟をやり込めたりなんかして居たものなのに、今宵 ( ) に限っての此の恐怖は、――一体どこから起ったものか。…………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
………………弟は眠って居るようだった。ほっとしながら、さらさら着物を脱いで蚊帳の中に入った時、まだ眠って居たかったのか妻が、
「放蕩児 ( ) 」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
甘ったるく一口浴びせかけた。時が時だけにギクッと来た。妻のそう言った心持ちは、どうせ彼女の事だから、普通男友達同志が、
「よう、巧 ( ) くやってらあ」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
なんぞ、他意なく言うのと、ちっとも変っては居なかったのだろう。だが光一郎は、運悪くも其れをひねくれて取って了 ( ) った。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「私にも浮気する権利はあるわよ。あなただって、そんなに放蕩してるんだもの」
いつもなら、飲みに行って帰ると必ず枕元に、お冷や ( ) と、洗面器――彼は大抵吐いた――とを妻が揃えて置くのだが、どうしたものか今夜は、それが無いのも光一郎には言い知れぬ程淋しかった。わざと、妻の方には眼もくれず、黙ったままの蚊帳の中から手を出して、近くにある深い菓子皿を洗面器の代りに枕元へ引き寄せといて、さて、妻と弟の真中にある彼の純白な敷布の上に脚を延べたら、――全身がサアーッと凍った。どどどどどどと跳ね出す心臓を、おし静めおし静め、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
――誰か、この床に寝たなッ!
とみる ( ) と確かに敷布が乱れて居る。むっくり頭をもたげたら、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「ガアーッ」
と菓子皿に吐いて了 ( ) った。精も根も疲れ果てたように、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 俯伏 ( ) になって、枕に頬をあてたまま眼だけをギョロギョロ動かして居たが、五分も経たぬうちに、くらくらとまどろみ込んだ様子。……………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
――よしんば関係があってもいい。
帯を取られたので、妻の萌葱 ( ) の酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 扱帯 ( ) をぐるぐる巻きにして、酒唖 ( ) 酒唖 ( ) ほこほこ ( ) と押し入れの前を行ったり来たりしながら彼は、その真夜中についで起った或る不思議な光景の夢のような記憶に仕合せと気がついたりした酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 故 ( ) か、とうとうそう心にきめた。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
……………それは午前二時頃であったらしい。ふっと眼が覚めたのだ。同時に、――殆 ( ) ど同時に、妻も酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 睫毛 ( ) の長い両眼をぱっちり開いた。或いは草木も眠って居るだろう。森羅万象ことごとくが死んだように酒唖 ( ) 酒唖 ( ) じ―― ( ) と鳴りをひそめて居るまっただ中で、今や二人の男女が、青蚊帳を透して来るほの暗い酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 燈火 ( ) のもとに、つくづくとお互いの顔を見まもり合って居るのだ。胸中に一物すらも思うこと無く、いささかの表情も交えず、ただつくづくと、まじまじと……………。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
そして、二人は又いつとは無く眠りに落ちて行くのであった。……………
――関係があってもいいのだ。妻は僕にシンから頼って居る。そうだ、なぜ今迄僕は昨夜の妻の瞳を思い出さなかったのであろう。浮気は浮気、亭主は亭主、それでいい。
彼は部屋の片隅にぶら下って居る蚊帳の吊り紐の端を結んでは、ほどき、結んでは、ほどきしながら、もう晴れやかに頬を輝かして居た。
――自分では、もっとさばけた ( ) 男だった積りだが。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
と苦笑しいしい、
――妻が僕の一人しかない味方なんだもの、別れるのは、つらい、つらあい。
又々押し入れの前をうろうろしながら、不覚にも震え声で押し入れに話し掛けた。
「まだかい」
返事がない。で、またぞろ不安に成り出した。
――要するに僕は老いたのだな。疲れちゃったのだ。世間を知り過ぎたのかな。怒って見せる力もない。……………
押し入れの中で、しのびやかにカタリと音がした。
――若 ( ) し、なんだったら僕が二人に哀願してもいい。どうか僕を捨てないで呉れ、とな。僕にそうさせるものは女房や弟に対する愛のみではないのだ。今の僕は何よりも孤独を恐れて居るのだ。枯れ木も山のにぎわい、で誰でも構わないから僕の傍に居て呉れれば、それでいいんだが。こんな男の傍に居て呉れるような気紛れやが、現在の妻の他には此の世に一人も無いとしたなら、僕は妻にどこまでも武者振りついて居なけれあならん。例え、妻と弟が、現の亭主とかすがいの、子種がないのも辛いと、連れそうても、僕を傍に置いてさえ呉れると、こちらにはまあ、文句がないなあ。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
いずれにもせよ、聞くに絶えない女々しい話であった。……………
押し入れの襖がカタゴト鳴ったかと思うと、さあっ ( ) と弟が飛び出た。まぶしそうに笑いながら、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「出来ましたよ」
続いて妻が、まだ水がぽたぽた滴 ( ) って居る生々しいフィルムを片手にさげて、ひょいと現れ、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「随分急いだのよ。だから余り巧くは出来なかったわ」
と無邪気にはにかんで。……………
――僕は何という馬鹿だろう。この弟とこの妻が……………。つまらぬ事を疑って居たものだ。そうだ、僕は別にこれという
なに ( ) を見た訳でもなし、……………馬鹿な男お――。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
と心の中で歓喜の声を挙げながら、
「どれどれ、美男拝見と」
妻の差し出す青いフィルムには、彼等兄弟の所謂 ( ) 見事な顔が、ものうつくしく幾つも幾つも、奇々怪々に並んで居た。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「綺麗に出来ましたねえ」
と弟。
「おやっ、この僕の頭が半分しか写ってないぞ」
と兄。
どっと三人で笑い出す。
「ね、ね、上から三番目のあんたの顔、駱駝 ( ) そっくりでしょう」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「うむ」
思わず頷いて、再びわっと笑声が揚る。
妻の手で窓の中央部に下げられ、窓外の涼しき風景をくっきりと二つに区切って居る長々しいフィルムからは、水蒸気が見る人の心も軽げにちろちろちろと昇って居た。
又も暫くは写真の事で、皆わいわい騒ぎ合って居たら、突然開き直って弟が、もう汽車の時間です、と言い出した御蔭 ( ) で酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 俄 ( ) かにバタバタと色めき、酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「じゃ、まあ何か不自由な事があったら遠慮なく言って寄こしてね」
「はあ」
「あちらの下宿の方々にもよろしく」
「はあ」
「雨は降ってないだろう」
と妻に聞く。
「ええ」
力無く答えて居た。
「じゃあお前、停車場迄、お送りして………」
だが弟はそれを、どうした理由 ( ) か、蒼く成って拒んだのだった。……………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
……………弟が玄関で靴を穿 ( ) いている間、光一郎は妻と並んで、ちょこなんと式台にしゃがみ、妻が弟にぺちゃくちゃ喋って居るのを聞きながら、意外にも或る不可解な、底知れぬ酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 侘 ( ) しさに悶えて居た。荷車が彼の家全体を、ゆらゆらと動かしながら酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 喧 ( ) しく通って行く。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
――さて、さて、此の憂鬱は何者だ。どこからやって来たのだろう。すべては無事に終ったのに。
「さようなら」
学生らしく朴直な挨拶を述べて、ぴょこん ( ) と頭を下げた。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「ああ、身体 ( ) に気を附けてね」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「冬休みには必ず又お遊びに……」
そして二人は残された。……………
堪らなく成って、よっぽど恥しかったが、やはり妻の両手をむずと摑 ( ) んだ。妻は指先をぷるんぷるんと震わせて居た。そして当惑そうに、誰も居ぬのは判り切った事ながら、そっとあたりを見廻した。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「こないだのフィルムも序 ( ) に現像しちゃえよ。こんどは僕が助手さ」酒唖 ( ) 酒唖 ( )
空 ( ) の声をぜいぜいさせ、息せき切って言い出したものだ。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
「えっ」
妻も顔色をさっと変える。
「ね、さあ」
妻を暴々 ( ) しく、ぐいぐい引きずり、押し入れの中にぽこん投げ入れた。……………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
噫 ( ) 、此の暗室の中で、此の悲惨な夫婦が一体何をしようと言うのだろう。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
世にも凄絶 ( ) したる酒唖 ( ) 酒唖 ( ) けはい ( ) が、この暗黒の内に酒唖 ( ) 酒唖 ( ) 蠢 ( ) いて居る。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
これは単なる情慾 ( ) か。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
これは単なる情慾 ( ) か。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
彼はがくんがくんと身体 ( ) を震わしながら、じわじわ妻を押しつけて行った。酒唖 ( ) 酒唖 ( )
妻とて手にした二つの薬品皿が互に触れあって、コツコツコツと鳴り出す程、震えて居ながらも、流石に女、見え透いた附け元気で、
「暑いのねえ」
と呟 ( ) いては見たが、いたいたしや、そうゆう声迄。……………酒唖 ( ) 酒唖 ( )
■太宰と小山初代
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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