記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月16日

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7月16日の太宰治

  1926年(大正15年)7月16日。
 太宰治 17歳。

 「蜃気楼(しんきろう)」七月号を刊行。「哄笑(こうしょう)に至る」を津島修治の署名で、「因果帳」を無署名で発表し、巻末に「編輯後期」を(修治)の署名で掲げた。

哄笑(こうしょう)に至る』

 今日紹介するのは、太宰が、青森県立青森中学校在学中に書いた小説哄笑(こうしょう)に至る』です。
 哄笑(こうしょう)に至る』が掲載された蜃気楼(しんきろう)は、中学時代の太宰が主宰した活版刷り同人雑誌。1925年(大正14年)11月創刊、1927年(昭和2年)2月まで、通巻12号が発行されました。編集兼発行人は、津島修治(太宰の本名)。
 太宰が、青森中学3年生の秋、同学年の気心の知れた仲間に呼びかけ、中学1年の弟・津島礼治、下宿先の若夫婦(豊田雄一・のぶ子)も加え、同人組織で出発しました。同人は、当初の10名から、やがて20名に増え、学校内外で話題になったそうです。

 哄笑(こうしょう)に至る』

「ホーーッ」僕はとうとう変な声を出してしまった。実際驚かなければいけない事だ。
 僕にとっては全く大事件である。
 僕は新聞を持ち直した。そしてもいちど、今度は声を出して読んだ。だが、やっぱり驚くべき事件は驚くべき事件にホカならなかった。
「オーイ泰二」僕は悲鳴に似た調子で叫んだ。弟がバタバタ走って僕の室に入る。
 弟「何?」
 僕「権太がネ、権太がネ」
 弟「何? 権太? どうしたの?」
 僕「アノ…………」
 弟「どうしたの? エ?」
 弟はホントにウルサイ程熱心になる。
 実際弟によらず、権太を知ってるなら誰だって彼についての話を興味を持って聞かない程の者は一人もないであろう。よって権太がどんなに皆の人気があったのか、知るに十分であろう。権太の人気はスバラシイものであった。
 第一彼は権太と呼ばれるのはどうしてだろう。彼には山田順造というそれこそ立派な名前があるのに。彼は僕のウチの番頭だった。今でこそコンナだがあの頃は僕の家だって町でも屈指の呉服屋だった。よくは記憶してないが店に手代の七八人も居たようであった。権太はその七八人のうちの先輩。だが店に於ける勢力は少しもなかった。彼はお人好しだったからだ。人間はこれ程迄もお人好しになれるんですということを彼は吾々に知らせる為に生れて来たのではないだろうかと、僕には屡々(しばしば)思われた。二回言うが彼はとにかくお人好しだった。
 彼は芝居が好きだった。イヤ観劇でなく、自分でやるのである。彼の十八番は千本桜のいがみの権太だと彼は常に言って居た。
 長兄の祝言の時いよいよ僕は彼のいがみの権太を拝観するの機会を得た。
 笑いこけたのは僕ばかりではなかったらしい。ダイチ彼の顔がいけない。どっちかと言((ママ))ば幅よりも長さが短い彼の顔。細くだれた眼、薄い眉。ポカーンとあいた口。どこをさがしたって彼の権太には自分の妻子を縛りつけるような元気が少しもありそうにも見えなかった。それは先ずそれでよい。がもっと困ったことは彼は十分に舌が廻らぬことだった。ニロニロして何を言って居るのやらサッパリ分ろう筈はなかった。それでも彼は真面目だった。
 それで彼は皆のお客にホロリとさせようとして居るのだから尚更おかしい。
 それまで笑いをこらえて居た人達もとうとう笑いこけてしまったのは次の事件であった。今が千本桜の最高潮だとも言うべき時、彼は(すべ)って、ゴロリ畳の上にころんだのだ。そして彼は、いかにも赤面してエヒヒヒヒヒヒヒヒヒと笑ったことである。
 その翌日に彼は僕に言った「どうでした、昨晩の権太は」僕も皆笑ってしまったヨとも言えないで「たいしたものだナ」と言ってやった。
 そしたら彼の言い草が振ってる「イヤなに、……でも昨晩は馬鹿に調子がよくって、自分ながら驚いた位だったでげすヨ、エヒヒ」その日から僕は彼に権太と名づけてやった。一週間も経つと、皆彼を権太或いは単に「権」と言うようになった。
 権太の人のヨサを表わした事件はまだまだいくらでもある。
 権太は宗教家であった。その証拠に彼は真宗のお経が読めた。誰がおだてたのか彼は毎朝僕の家の仏壇にお経を上げ始めることにした。彼は朝起きるのは早かった。冬でも五時頃だろう。

 

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■津島家の仏壇(斜陽館) 2011年、著者撮影。

 

 彼は起きるとすぐ読経だ。困ったことには彼の声は少し大き過ぎたことであった。隣の僕の従弟が毎朝その声で目を覚ますというから、どれ位の程度だったか推し量るに難くはないだろう。
 僕等がウツウツ眠って居ると「帰命无量如来(きみょうむりょうじゅにょらい)南无(なむ)不可思議光。法蔵菩薩…………」なんて。グワングワン家一ぱいに響く。皆ビックリしてしまってボーンと飛び起きる。
 併しそれは三日続かなかった。寝坊の僕の父に大きい眼玉を頂戴したからだそうナ。
 権太はだがニヤニヤしていた。
 後で聞いたが彼はそのお経を上げる前には、いつも塩水で口を(すす)ぎ、手を洗い身を清浄にし然る後に仏壇の前に座ったという。
 権太が小学校の先生になりたいと希望したのはその後間もなくのことであった。
 僕の父にたのんで教員養成の講義録をとって貰った。丁度僕が中学校への受験準備をやって居た時だった。二人で勉強しましょう。と権太は真剣に僕に言って来た。ではと二人で一緒に勉強にとりかかった。
 権太は僕と一緒に一週間ばかり勉強した。大抵晩は店の方で権太は急がしかったから朝四時頃起きて勉強して居た。僕を起こして呉れるのは下女のタケやであった。タケやはニ十歳位のヤセた小さな女であった。タケやは僕の言いつけなら死んでも守るというような女だった。四時に起せと言((ママ))ば四時に起して呉れた。僕は今夜は宿題が多くて十二時迄起きて勉要しなければならないから、お前それ迄寝ないで僕の傍に居るんだヨ。と言((ママ))ば十二時迄一寸の居眠りもしないでチャンと僕の傍に座って居て、臆病な僕のお守り役をして呉れた。とにかくタケやは、僕を好きであったらしい。そのタケやは今度権太をも起してやらねばならなくなった。二三日してタケやは僕にコッソリ言った事はこうだ。
「シュウ(タケやは二人きりの時はいつでも僕をこう呼んだ)だけナラ起して上げますが、権太はいやです。ナゼって権太は勉強もしないで朝早く起きたっていつも炉バタに黙って座って私達の室の方を見てニヤニヤニヤニヤしてるんですもの、皆気味悪がって私に今度から起してやるナと言うんです」
 僕等の勉強してる部屋から庭をでだててすぐ女中部屋だった。障子はガラス張りだった。
 権太は次の日は起して貰いなかった。
 流石の権太も、これにはプリプリ腹をたててしまった。なんでもタケやは、その為に権太に頬を一つ見舞われたらしい。
 タケやは次の朝は、ナンボなんでも打たれるのはいやだろうから渋々権太を起しに行った。
 併し権太は起きなかったのである。
「眠いヤ」権太はそう言ってフトンをスッポリかぶってしまったそうである。
 権太の教員志望はだんだん影を薄くして行った。
 権太の居た頃は姉は女学校の三年だった。
 同じ手代仲間に吉造という奴が居た。イヤにシャレルもので、休暇で姉が一緒に僕の家に連れて来た友達が休暇が終って姉と又一緒に帰ったが、その姉の友達が、ナマイキな手代間に於いて噂が高かったんだそうだ。権太は馬鹿で吉造にオゴられてでも居た時、御恩返しの積りでかその姉の友達が吉造に心があったとかなんとか言ったらしい。
 吉造も吉造、本気になって直接女学校の寄宿舎のその友達の所に手紙を出したそうだ。
 手紙の内容は聞かぬがとにかく手紙を出したのだ。
 それから間もなく権太の所に一通のハガキが来た。
 僕は権太とトランプか何かをやって居た時だった。何気なく手に取って権太はそのハガキを読んだが、彼は眼をクルクル廻した。手がブルブル震えたのはホントのことだ。
 どうしたんだい。なんだい。僕はそう言いながらハガキを奪い取った。姉からのハガキだ。
「○○さんの処に吉造から手紙が来たが、○○さんは非常に怒って居る。吉造の手紙によると、お前が妙なコトを言ったそうだが、ホントウか、○○さんは断じてそんなことはないと言っている」
 これじゃ、権田の蒼くなるのも無理がない。権太は僕にどうすればいいでしょうと聞いた。僕は「平あやまりにあやまるに如かずだ」と言ってやった。
 姉の話にこうある。
 権太から姉に手紙が来た。封を切って読んで見ると笑ってしまった。半紙一枚に大きくベタベタと次の文句が書いてあった。
「私は吉造をだましたのです。済みません。終り」

 

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■「蜃気楼(しんきろう)」の同人たち 創刊1周年記念写真。前列左から3人目が弟・礼治。後列左から3人目が太宰。

 

 まだまだ彼については面白いことがある。
 僕の祖母を無理矢理に病気だとして皆を騒がせたのも彼であった。又彼にも面白い恋があった。併しどれにもこれにも天才的喜劇俳優たる光を十分に発揮して居た。
 実に彼は偉大なる俳優であった。
 権太なる彼の名からして芝居である。
 その権太のことだ。
 弟が熱心に聞きたがってるのも決して無理でない。
 僕「いいかい聞いてろヨ、今この新聞を読んであげるから…………
『稀代の詐欺漢、遂に自白す』だよ。
『昨夕本紙既報の稀代の詐欺漢山田順造(三二)は罪状つつみ切れず遂に自白す。彼の詐欺は頗るたくみにして、K警視は彼を称して二代天一坊と言えり。
 然して彼は平生マコトにお人好しの如くよそおい、大抵の人は皆彼をこの上ない好人物なりと思い居るなり。
 彼順造の言に『私も今迄たくさんの人に好人物らしく見せる為にどんなに苦心したか分かりません云々』と』…………………………………」
 僕が皆迄読んでしまわないうちに弟は「ヒー」とトンキョウな声を出した。
 僕も読むのを止めた。
 弟はなぜか顔をホテらして居た。僕はそれを見て苦しい笑顔をつくった。しばらくは無言だった。そして二人でシミジミと「ワナ」にかかった気持の悪い恥しさを味ったことである……………………、僕はフトつぶやいた「順造は俳優だからナ。俳優……………………」
 弟は思い出したように「兄さん歳は何歳だって」
 僕「エート三十二歳だ」
 弟「オカシイナア、順造が僕達の家を出たのは、サキおっとし、だったでしょう」
 僕「アア」
 弟「アノ時順造は二十一で兵隊検査」
 僕は急に心が軽くなったような気がした。
 そしてウンと力を入れて「そうそう。して今軍隊に居た筈ダネ。ツイ二三ヶ月前お前のトコに絵ハガキが来たネ」
 弟「ウンソウだ」
 僕「ナーンだい。人違いだヨ。同じ名前の人だヨ」
 弟「馬鹿にしてるネ」
 僕はホットした。弟も心からホットしたように見えた。今迄重苦しく僕の頭を抑えて居たナニかを急にスバラシイ勢ではねのけてしまったような気がした。
 僕「まさか権太がネエー」シンミリそう云った時僕の眼にフト今迄。極悪人だとされて居た権太のあのニヤニヤしたヘンな顔がチラついた。
 僕は急に或るコソバユさを覚えて来た。フンあいつが詐欺漢フン。僕は弟をチョイト見た。弟もそんな気がして居たのか変に口をモグモグさせて居た。
 期せずして視線が合った。次に起るべきものは当然胸のシン底からこみ上げて来る愉快な哄笑(こうしょう)に違いはなかった。

 東京に居る兄の利一からこんな手紙が来た。
「こんど同人雑誌十字街に俺が創作『哄笑(こうしょう)に終る』を書いてやったが、近頃の俺の自信がある作品といってよい。読んで見ろ」
 自分はまだ「哄笑に終る」を読んで見ない。
 そして自分も「哄笑に終る」を書いて見た。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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