記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月25日

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4月25日の太宰治

  1946年(昭和21年)4月25日。
 太宰治 36歳。

 越野(こしの)タケが、津島文治の当選祝いの挨拶や祖母の見舞いを兼ね、疎開中の修治にも逢いたくて、小泊から金木の実家に里帰りし、津島家を訪れた。

疎開中の太宰に「たけさん現わる」

 今日は、太宰の子守として有名な、越野(こしの)タケ(1898~1983)についてです。
 タケについては、2月2日の記事で「太宰と越野タケ」として紹介していますので、未読の方は、ぜひご一読下さい。タケが修治の子守になる経緯等について読めます。

 さて、1946年(昭和21年)の今日、タケは、太宰の長兄・津島文治の当選祝いのため、津島家を訪れました。
 実家の金木に疎開中の太宰は、衆議院議員選挙に立候補した文治の選挙活動の手助けも行っていました。「長兄・文治の選挙応援」については、3月3日の記事で紹介しました。

 津島家を訪れたタケは、疎開中の太宰に逢う事も楽しみにしていたようなのですが…。
 この時の様子を、太宰の妻・津島美知子が『回想の太宰治に書いているので、引用して紹介します。

 たけさんに私が初めて会ったのは終戦翌年の四月末である。文治兄の選挙がまずまずめでたい結果で終って、桜はまだ蕾であるが四月二十日過ぎともなればさすがに北津軽の野も春めく。たけさんは当選祝の挨拶や、祖母の見舞や、また疎開中の修治にも会いたく、小泊から金木の実家に出てきて、やまげん(”へ”の下に”源”)を訪れたのだろう。
 知らせがあって離れの奥座敷から出て行くと、母屋に一番近い座敷の外側の廊下で、たけさんが七つか八つくらいの女の子を連れてやってくるのと出逢った。
 案外、若い人――と思った。今までなんとなくたけさんのことをお婆さんのように考えていたが、目の前にいるたけさんは、店番でも畠仕事でもなんでも出来そうな中年過ぎのおばさんであった。その筈で太宰より十一歳くらい年長のたけさんは、そのときまだ五十前だったのだ。
 昭和十三年に、太宰を知ると同時に、私は太宰の作中人物としてたけさんのことを読んで知り、また太宰からも始終たけさんのことを聞いていたが、そのころ私にとってたけさんは遠い国の、遥か昔の人であって、昭和十五年に、ラジオ放送「郷土に寄せる言葉」で太宰が「思い出」の一節を朗読して、それはたけさんに呼びかけたのだと聞いたときも夢のような話と思い、応答を期待する太宰がふしぎに思われた。けれども太宰にとっては現実のたけさんに本気で呼びかけたのであり、同じ狭い土地に定着して住んで親子代々のつきあいを続ける太宰の郷里での人間関係は私の想像を超える濃密なものだったのだ。
 昭和十九年に、「津軽」の旅で太宰はたけさんに再会し、それ以来、小泊と文通や小包のやりとりをするようになり、戦地の息子さん宛に慰問文を送ったこともある。
 たけさんと私とが廊下で立ったまま挨拶してると、傍の障子をあけて、書斎にいた太宰が出てきた。そして私にほんの二ことか三こと言葉をかけると、匆々(そうそう)に母屋の方に立ち去った。たけさんに、「よくきたな」ともいわず、笑顔も見せず――意外に思っていると、たけさんは太宰のうしろ姿を目で追いながら、「修治さんは心の狭いのが欠点だ」と、これまた突拍子もないことを言い、それから中庭におりる階段に腰をおろした。たけさんの声が、も少し大きかったら、太宰の耳に入ったか、というほどの間であった。私は解せぬ気持のまま、たけさんの横に並んで腰かけて、しばらく話をした。たけさんはまだ復員しない、ひとり息子の身の上をしきりに案じていた。太宰はそれきり姿を見せなかった。
 これだけのことなのだけれども、そのとき抱いた不審がはれずに残って、時間にしたらほんの僅かの間の場面、太宰が久留米の羽織の裾を翻して座敷の角を曲がって消えたその姿や、たけさんのいやにはっきりした言葉が忘れられず、何度もあのとき見聞きしたことをとり出しては考えた。太宰の生前、彼の一族の人々、私の実家のもの、つまり身内のものはみな彼をいたわり傷にふれないように気をつかって接し、彼を批判する言葉を私はそのときまでただ一度も聞いたことが無い(北、中畑両氏はもともと小言をいうための目付役である)。また太宰の話だけで「たけ」のイメージを作っていた私にはこの日、初めて聞いた彼女の修治批判の一言が恐ろしく強くひびいいたのである。

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 まず、自分は現実と小説とをごっちゃにしているかたむきがあるという反省。「たけさん現わる」ときき、「津軽」の終りの、劇的場面が再現されるようなばかな期待を抱いたのではないか。あのときは久々の対面であり太宰の脚色も加わっている。そのことを忘れていた。それにここはやまげん(”へ”の下に”源”)の奥座敷。みすぼらしい姿で「三鷹の自分の借家よりずっと立派なたけさんの家」に厄介になったときと違って、昔の主従関係がおのずから復活するのではないか。以前の奉公人への応待など案内に任せればよいことだ。しかし母屋の旦那は愛想よく誰にでも言葉をかけているし、あんなに今までたけさんのことを慕って話したり、書いたりしていたのに、たずねてきた人にあまりにも素気ない太宰の態度ではないか。
 たけさんの方は、というと彼女がずらずらしゃべると、まるで私にはわからないのに、あのときはことさら標準語で言ったのではないだろうが、訛がなくて、まるで用意してあった、とり出したかのようなはっきりした発言であったが――もしかすると、あの言葉は彼女の修治に対する人物評として胸底にずっと(わだかま)っていて、口外されるチャンスをまっていたのではないだろうか。
 では人物評としてどうかというと、やはりというか、さすがというか、正に的を射ている(もちろん彼女は太宰を常識人としてみて言っているのであるが)。そして太宰は素早くその「人物評」が女房の前で、とり出されるのを予感して逃げたのだ。事前に一瞬の差で逃げ去った太宰も太宰だが、たけさんもよく彼の「人」を見ぬいている。
 太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人で、できればいつも(がま)の穂綿のような、ほかほかの言葉に包まれていたいのである。結婚直後、「かげで舌を出してもよいから、うわべはいい顔を見せてくれ」と言われて、唖然とした。また彼がとくに好まないことの一つは女房の前で何か苦言をあびることである。郷里に疎開してからは過去を知っている旧知が多いので、よけい気をつかっている様子であった。
 たけさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、きびしい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。一方、たけさんの率直な、粗野な飾り気のない性格から、いつ耳に痛い言葉が飛び出すかわからないことを太宰は知っている。「思い出」と「津軽」に、たけさんが太宰に言った言葉として、「油断大敵でせえ」「たけは、本を読むことは教えたが、酒だの煙草だのは教えねきゃのう」と記されている。育てた人は強い、と私は思う。こんなことが言えるのだから。もちろんこれは小説のことではあるがたけさんの人柄は、私は後日接して知ったのだが、表と裏と使い分けできる、演出のうまい型でないことはたしかである。率直よりも演出を好む太宰は「逃げるに如かず」と直感して逃げたのであるが、もしたけさんが「心が狭いのが云々」と言ったのを、太宰が聞いていたら、あれだけの人物評でもきっと「真向唐竹割(まっこうからたけわ)りにやられた」と感じたであろう。針でさされたのを、鉄棒でなぐられたと感ずる人なのだ。うまく逃げて聞かなかったのは、かえってよかったのかもしれない。

 タケの様子を切り取る美知子の筆が、なんとなく冷たいような印象を受けます。
 この時の様子について、タケの孫・越野由美子は、『タケの色々な話』の中で、『回想の太宰治』を読んだタケが、次のように話したと書いています。

「修治さんは心の狭いのが云々・・という太宰に関することなど、私はどうのこうの批判する立場ではないし、言うわけがない。人に太宰の悪口を言われたり、非難されることも嫌なことなのに、どうして自分の口から言うことがあるものか、こと更に大事な奥さんの前で言うわけがない。自分では、絶対に言ってはいないと断言出来る。」とも言っていました。身内だからでなく、祖母のことを知る人は、きっと祖母のこの話を信じると思います。私達身内に対しても、太宰の事は褒めたり庇ったりすることはあっても、決して悪口を言ったり、愚痴ったりすることはなかったと記憶しています。

 この文章に続けて、【私が感じる奥様の人間像】と題して、

 私が思うには、奥様の祖母を見る目は、幼い頃の夫の子守りというより、女として見ているような気がします。女が絡む夫の数々の裏切りを経験し、そして、その裏切りは、最後の最後迄続いた奥様にしてみれば、そう考えてもしょうがないのかなと思ったりもします。夫に抗議したいのに元教育者で冷静沈着で優秀、決して乱すことのないというより、そうなることのプライドが許さず、それが出来ない奥様は、自分の感情は決して出すこともなく、いつも自分の殻に閉じこもり、我慢していた可哀そうな人と考えると、果たして、奥様は太宰と結婚して幸せだったのだろうかとも思ったりします。

と記しています。
 上記は、あくまで個人的な見解ではありますが、少し心にストンと落ちてくる部分もあり、また、文章の最後には、色々と考えさせられてしまいます。
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■小泊の「小説『津軽』の像記念館」にて 2010年、著者撮影

 【了】

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【参考文献】
・『太陽 9月号 特集●太宰治津軽』(平凡社、1971年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・越野由美子『太宰の子守り越野タケの孫が語る タケの色々な話』(タケさんを囲む会、2013年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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