記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月3日

f:id:shige97:20191205224501j:image

3月3日の太宰治

  1946年(昭和21年)3月3日。
 太宰治 36歳。

 金木文化会(会長一戸正三)発表会に出席、「文化とは何んぞや」と題して祝辞を述べた。「文化とは優である。優とは人を憂うと書くが、それが文化だ」と語ったという。「会には役場職員や学校の教師など約二百人が集まった。」そののち、この会の座談会、自作朗読会に度々出席し、戦後の文芸雑誌も各種寄贈。二月下旬頃から留守がちで、「長兄のおさがりのグレイの背広、紺のコートに長靴をはき、時にはリュックサックを背に」弘前鯵ヶ沢、木造、黒石、嘉瀬、五所川原などでの座談会や催しものなどにも出席。そののち、小学校時代の旧友のほか、弘前や木造や嘉瀬などから、訪れる青年が多くなった。

長兄・文治の選挙応援

 今日紹介するのは、太宰が故郷の金木町に疎開していた頃のエピソードです。
 この前日の3月2日夜にも、太宰は金木での進歩党演説会に参加しています。シャイなイメージのある太宰が、演説・座談会などの催しものに参加していた、ということを意外に思う方も多いのではないでしょうか。

f:id:shige97:20200226214009j:image
■1940年(昭和15年)、東京商大にて「近代の病」と題して講演中の太宰。

 2月6日に更新した記事でも紹介しましたが、意外と太宰が講演をしたり、演説をしたり、というエピソードは多く残っています。

 疎開中の太宰の様子について、津島美知子『回想の太宰治から引用します。

 太宰はまた和服姿になってサンルームに机を据えて来客にも応接し、寒くなると母屋に近い座敷を書斎にして文筆生活に戻った。
 金木の小学校時代の旧友、弘前、木造あたりの若い文学好きの方々、東京からの来客もあった。遠来の客にはヤマゲン("へ"の下に"原")で酒を調えて芦野公園で歓談するのが慣例になった。
 文治兄は長らく公職から遠ざかって母屋の二階の書斎に籠っていたが、終戦後最初の衆議院議員選挙に立候補することになり母屋はにわかに活気を呈してきた。二十一年のはじめから春にかけて、太宰も選挙運動の一環として近くは嘉瀬、五所川原、乗り換えて木造、弘前、黒石、鯵ヶ沢等各地の会合に顔出しした。長兄お下がりのグレイの背広、紺のコートに長靴、リュックサックを背にした彼の姿を記憶している方もあると思うが、果してどの位役に立ったものやら、次兄英治は入院中であったから、その分まで働くべきところであったが、この愚弟はただ選挙に便乗して大酒をのんだだけだったかもしれない。

 この頃、太宰が方々に顔を出していたのは、長兄・津島文治の選挙運動の一環だったようです。美知子は「この愚弟はただ選挙に便乗して大酒をのんだだけだったかもしれない。」と書いていますが、これまで面倒を掛け続けて来た長兄に対して、少しは役に立ちたいという思いもあったのではないでしょうか。

f:id:shige97:20200226220234j:image
■太宰の長兄・津島文治

 さて、金木疎開中の「太宰の選挙運動」について、青森出身のルポライター鎌田慧(かまたさとし)津軽・斜陽の家』から引用して、もう少し見てみます。この本には、「戦後第一回の衆議院選挙に、進歩党から立候補する、文治の演説草稿を手直ししたりしている」と書かれています。

 康一によれば、文治の生原稿にむかって、机の前の立て(ひざ)で、クックと笑いながら筆をいれていた。おそらく生真面目な一本調子に、つきあいきれない、と思っていたのであろう。金木劇場へ太宰とふたりで、文治の演説を聞きにいって、ふたりそろって拍手したりした。文治にとって肝心の英治は、病気で入院していたから、頼りになるのは太宰だけだった。

 このころの太宰の姿は、つぎのように描かれている。
「戦後初めての衆議院議員の選挙に文治先生も立候補するということで、準備が進められていた。或る日、山源の二階には北郡下の各町村の青年代表(青年団長とかリーダー達)が集められた。その時木立民五郎(きだちたみごろう)さんは、日本進歩党北津軽郡青年部長で、当然その代表達の中心的役割を果す役目についていた。その集会にも自分個人だけでなく、部下を何人か引き連れて参加したのである。その中の一人である私も、山源の大邸宅に入るのは初めてである。しかも洋風の手すりのついた階段を恐る恐る上って行ったときは胸がドキドキした。
 広い部屋には既に十人以上の青年達が集まっていた。正面の床の間を背に文治先生が坐っており、その隣りに三和精一(みわせいいち)県会議員(後の代議士)がその場の進行係をつとめていた。『おい、青年部長、遅いぞ!』とダミ声を上げた。木立さんは『遅くなりました』とあいさつして自分の時計をひょいと見たが、定刻前の様でニガ笑いをした。文治先生は鷹揚にうなずいただけだった。私は部屋に入った時、ちょっと異様に感じたのは、入るとすぐ左側の隅に和服姿の人物が、何かその場には馴染まないという感じで坐っていた。私は会議の内容よりもその人の事が気になって、ひょいひょいと(うかが)い見た。その人は(ただ)無言で、鉈豆煙管(なたまめぎせる)で刻み煙草を吸っていた。それも休みなく。細い長い指は、左手の中指、人差指、親指と黄色く染まってしまっている。この人は一体どんな人なんだろう、会議に参加しているならば座が離れすぎているし、だからと云って全然関係のない人はこの部屋に居る(はず)がないし、何回目かひょいと見た時は、まるで煙の消えたようにその場から消えていた」(山中正津(やまなかまさつ)「追憶・太宰治断片記」、「ふるさとのかたりべ」第十二集)
 小野正文によれば、愛用の鉈豆煙管で、刻み煙草を一口二口すって、横に吐きだすのを太宰自身、「豪傑のみ」と自称していた。平たい円形の薪用ストーブの鉄板のうえに、灰をたたき落とすと、煙管から雁首(がんくび)が外れてすっ飛ぶ。太宰はそれを拾いにいって話をつづけ、またポーンとたたきつけると、雁首が飛ぶ。それを繰り返していた、というから、けっして、豪傑の風情ではない。
 このころ、太宰のところに出入りしていた郷土の後輩たちは、彼の姿をよく記憶している。美知子夫人は、こう書いている。
「長兄おさがりのグレイの背広、紺のコートに長靴をはき、時にはリュックサックを背に、近くは嘉瀬、五所川原、乗り換えて、木造、弘前、黒石、鯵ヶ沢、各地の座談会やその他の催しに現れた太宰の姿を今に記憶して居る方々は多いと思います」
 彼女は「太宰が直接どれだけお役に立ちましたやら。便乗して大酒飲んだだけかもしれません」と書いているのだが、それは謙遜というべきものであって、文治から、「だれかお前の知り合いで、応援演説にきてくれるひとはいないだろうか」との相談をうけて、林芙美子の名を挙げ、さっそく依頼状を書き送ったほどである。しかし、これは先方の都合で実現しなかった。
 文治は太宰を愛情をこめて「家の不良少年」と言っていた。弘前出身の小説家である佐藤紅緑(こうろく)と会うと、その息子のサトウハチローが名うての「不良息子」だったので、ふたりの話は盛り上がった、とつたえられている。選挙運動は、太宰の絶好の名誉回復のチャンスだった。このときの堤重久宛の手紙(筆者注:4月22日付書簡)には、「選挙は、僕は一つとして手伝わず」とあるのだが……。
 文治が当選すると、祝い客が殺到した。太宰がそのお相手で、昼酒につきあわされていた。このときは、どぶろくではなかったはずだ。

 引用した中に、太宰が長兄・文治のために応援演説をした、という記述はなかったのですが、なぜか私の2年前のiphoneのメモに「太宰 6~8回選挙演説」という記録が残っています。おそらく、何かで読んだか、どこかで聞いたかだと思うのですが、もし思い当たる方がいらっしゃれば、情報提供頂けると嬉しいです。

 ちなみに、金木町に疎開中の太宰一家が過ごしていた場所は、現在太宰治疎開の家<旧津島家新座敷>」として公開中です。

 とても分かりやすいお話ガイドもあり、太宰の聖地巡礼で訪れる方には、オススメです。斜陽館からスグなので、ぜひ訪問してみて下さい。

 太宰がここで作品を書いたのか…なんて空想に浸りながら、こんな写真も、撮れますよ。
f:id:shige97:20200227001801j:image

 【了】

********************
【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム19 太宰治』(新潮社、1983年)
鎌田慧津軽・斜陽の家』(祥伝社、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】