記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月4日

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3月4日の太宰治

  1923年(大正12年)3月4日。
 太宰治 13歳。

 東京市神田区小川町三十三番地佐野病院に入院中であった父源右衛門の容態が険悪となり、午後四時、ついに不帰の客となった。享年五十三歳。貴族院議員在任わずか四か月目の出来事であった。当時、源右衛門は、金木銀行取締役頭取、日本勧業銀行青森支店顧問、鳴海銀行、青森日報、小館木材各取締役、松木呉服店相談役などの役職にあった。同日付をもって、正四位勲四等に叙せられ、旭日章を贈られた。

太宰の父・源右衛門の死

 太宰が13歳の時、父親の津島源右衛門(つしまげんえもん)(1871~1923)が亡くなります。53歳でした。源右衛門は、婿養子として津島家に入り、所有する広大な土地金融機関(源右衛門は、津島家が私設した金木銀行の頭取でもありました)を背景に、津島家を急成長させました。

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■太宰の父、津島源右衛門

 1901年(明治34年)、補欠選挙に当選して県会議員となります。
 1904年(明治37年)には、納税額1,430円13銭(現在の貨幣価値で、約540~600万円)で、県内多額納税者番付第四位に進出します。津島家は、県内屈指の素封家となっていきました。当時、津島家の小作人は、金木をはじめ、近隣の嘉瀬、喜良市、武田、中尾などの各村に。300人近くいたそうです。

 1905年(明治38年)、先代・津島惣助が亡くなったことで、源右衛門は津島家の実権を名実共に握ります。これまでの商家風の家屋を移転して人に譲り、その跡地に大邸宅の新築をはじめます。総工費4万円(現在の貨幣価値で、約1億2,350万~1億4,770万円)をかけて、1907年(明治40年)6月に完成した、この大邸宅が、現在の斜陽館(「斜陽館」の命名は1950年(昭和25年)。2004年(平成16年)、国の重要文化財に指定。)です。

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 宅地の周辺は津島家の畑地だったので、源右衛門は、高さ4m余りの赤レンガ塀に囲まれた新邸宅の周りに、役場・警察署・郵便局・登記所等の公的機関や、金木銀行・医院・電灯会社・印刷所などを配置し、自ら「金木の殿様」として君臨するようになります。
 この「斜陽館」が建てられた2年後、1909年(明治42年)に生れたのが太宰でした(源右衛門・夕子(たね)の第十子六男)。

 1912年(明治45年)、源右衛門は第十一回衆議院議員総選挙立憲政友会から立候補し、郡部の選挙区で2190点を獲得。第三席で衆議院議員に当選し、津島家は最盛期を迎えます。
 源右衛門は、新邸宅と新代議士にふさわしい格式をつくるため、家族はもちろん、使用人に至るまで序列を設け、大地主の家長として威厳を示すようになります。家族に対しても、権威主義で臨み、後継ぎである文治以外は、妻といえども特別扱いはしなかったといいます。
 この頃の家庭内の様子を、子供時代の太宰(津島修治)は、作文「私の家庭」に次のように書きました。

 私の家族は、おばあさんとおとうさんとおかあさんと兄様三人と内に居る姉さん三人とよそに行って居る姉さん一人あります。弟一人と僕とで都合十二人です。今は一番大きい兄さんと三番目の兄さんと大きい姉さまは東京に居ます。おとうさんはずっと早くからお(かみ)の用で東京に行って居られるし、お母様と二番目の兄さんもついこの間東京に行きました。末の姉さんは弘前の学校に居るし、今家に居るのはおばあさんと二番目の姉様と弟と僕とたった四人しか居りませんので、大そうさびしゅうございます。三番目の兄様は今年で中学を()えるので、卒えると美術学校に入学するといって居ます。一番兄様は大学生です。末の姉様も来年は卒業するので、卒業すると小学校の先生をすると云って居ます。

  代議士になった源右衛門は東京の滞在が長く、金木に帰るのは1ヵ月か2ヵ月に1回で、自宅に1週間ほど滞在すると、家人全員に見送られて馬車に乗り、弘前や青森などに出掛けたそうです。自宅にいても、村長・県会議員・小学校長・警察署長など来客が多く、食事も茶の間に膳を運ばせ、妻の夕子(たね)に給仕させて一人で食べ、修治の相手をするようなことは、ほとんどなかったといいます。

 1922年(大正11年)には多額納税による貴族院議員(県内定員1名)に選ばれますが、翌年の3月4日、肺気腫のために亡くなりました。
 翌3月5日付、青森の地方紙である「東奥日報」夕刊の真中に、黒枠に囲まれた写真入り、「多額議員 津島氏逝去 四日午後八時 東京佐野病院で」の見出しで、死亡記事が掲載されました。

 午後八時 遂に逝去した遺骸は一先(ひとま)ず府下東大久保二百三十四番なる長男文治宅に収容したが遺骸の(まま)郷里へ運ぶか或いは(こつ)として夫人一行は持参するかも()からぬ、従って葬儀の日取りなども未だ()まって居らぬそうだが、訃音(ふいん)に接し鳴海銀行頭取鳴海周次郎氏等急行し尚金木よりも親戚知己等続々上京しつゝある。

 源右衛門の遺体は、3月6日の午後1時、多数の見送りの中、客車を一輌借り切って上野駅を出発。翌7日の午前6時30分に青森駅着、午後3時30分に五所川原駅に到着しました。その後、まだ雪深い中、馬橇(ばそり)10台で金木の自宅に移送されました。
 3月19日に行われた葬儀には、1000余名が訪れました。金木はじまって以来の盛儀で、自宅付近は往来も出来ないほどの雑踏を(てい)し、警官が出動して整理にあたったと伝えられています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
鎌田慧津軽・斜陽の家』(祥伝社、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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