記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月25日

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5月25日の太宰治

  1947年(昭和22年)5月25日。
 太宰治 37歳。

 朝からビールを飲み、午後、画室で太田静子をモデルに絵を描き、それを彼女に渡して桜井浜江宅を辞し、太田静子と別れた。

太田静子の三鷹来訪

 今日、紹介するのは、太宰と山崎富栄が出逢った2ヶ月後の出来事です。

 1947年(昭和22年)3月半ばを過ぎる頃、太田静子は、自身の妊娠に気が付きます。ちょうど、太宰が、富栄と出逢ったり、次女・津島里子(のちの、作家・津島佑子)が生まれた時期と重なります。

 静子が太宰に妊娠を告げると、「それは、よかった」とにっこり笑って、とても素敵な表情をした、と静子は、その時のことを回想します。そして、「赤ちゃんが出来たからには、もうふたりは一緒に死ねないよ」と言い、「誓いを破ってしまった。どんな場合でも、誓いなど立ててはいけないよ」と低い声で言ったといいます。
 太宰が「破ってしまった」と話す「誓い」とは、妻・津島美知子と結婚する際、仲立ちをした師匠・井伏鱒二と交わした約束のこと。

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 ここには、「小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。」「ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」と書かれてありました。

 この頃、太宰は、周囲の人に、「俺はなんて子早いんだろう、我が身を(うら)むね」と、こぼしていたといいます。

 静子は、「わたくしが妊娠したことは、兄弟にも、それから親戚の者たちにも、すぐ知れてしまいました。とても叱られました。いけない事をしているのだと言われました。はい、わたくしも今では、いけない事をしたと思っております。なによりも、奥様に申しわけないことをしたと、お詫びの気持でいっぱいです。」と、当時を回想しています。

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 1947年(昭和22年)5月24日、静子は、生まれてくる赤ちゃんのことを太宰に相談したく、三鷹を訪れたい旨の手紙を書きます。この時の様子を、当時、新潮社で太宰の担当をしていた野原一夫『回想 太宰治から引用します。引用は、静子の回想からはじまります。

「(前略)午後三時すぎに、三鷹駅の南口からまっすぐに行った橋のたもとの屋台のうなぎ屋へという御返事でした。弟の通が心配してついてきてくれました。三鷹に着いたのは四時頃だったでしょうか。うなぎ屋さんにはあの方の姿は見えませんでした。そこの若い御主人が心得顔にうなずいて、自転車で呼びに行ってくれました。
 あの方は、なにか疲れているように見えました。面窶(おもやつ)れ、さえ感じました。セルの上着に灰色のズボンをはいて、下駄ばきでした。ビールを一本のむとうなぎ屋を出て、橋を渡ってすこし行った右手の、(にわ)か造りのマーケット奥にある『すみれ』という小料理屋に入りました。スタンドの高い椅子に腰かけてビールをのみはじめたとき、戸口があいて、なかをうかがうようになさって、たしかあのとき野原さんは、黒いジャンパーを着てベレー帽をかぶっていらっしゃった。」

 

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■新潮社の担当者 左から、野原一夫、野平健一

 

 その「すみれ」という小料理屋は、満州から引き揚げてきたという美人の未亡人のやっている、太宰さんの御贔屓(ごひいき)の店だった。(うなぎ)屋にいなかったら、「すみれ」か「千草」をのぞいてみるということになっていた。小料理屋の「千草」のことを簡単に書くと、戦前の昭和十四、五年、「千草」の夫婦は三鷹の駅前でおでんやをやっていて、太宰さんは学生などを連れて飲みに行っていたようだ。戦後、疎開先の山梨県石和(いさわ)から三鷹に帰り店をひらいてまもない二十二年の春、買物籠をさげて歩いていた太宰さんと路上でばったり会い、それからは頻々(ひんぴん)と顔を見せるようになった。二階の座敷があいていて、時にはその六畳間で原稿を書くこともあった。
 その日、私が「すみれ」をのぞいてみると、太宰さんの隣りに黒っぽい和服を着た女性が坐り、その横に浅黒い顔をした男性がいたが、その人たちが太宰さんのお客とははじめは気がつかなかった。「斜陽」の執筆に打ち込んでいる時だったので、その進み具合などを私は太宰さんに訊き、それから話が他に移って、太宰さんは私とばかり(しゃべ)っていたのだ。そのうち、他社の編集者が二人ほど顔をのぞかせ、私たちは「すみれ」を出た。出るとき、太宰さんが隣りのふたりに声をかけたので、私はおやと思った。
 あとから顔をのぞかせた二人の編集者も一緒に、連れ立って「千草」に行った。ガラス戸をあけると広い土間があり、その奥が座敷になっている。私たちは座敷にあがって食卓をかこみ、その連れの男性も坐ったのだが、女のひとは、土間のむこうの戸口のかげにしばらくたたずんでいた。

 

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■「千草」の女将・増田静江

 

 太宰さんに声をかけられて座敷にあがってからも、その女性は食卓からすこし離れて坐り、眼を伏せからだを固くしていた。どのようなひとなのか、見当がつかなかった。親戚のひとかとも思ったが、それにしては態度がうちとけないし、ファン、愛読者と考えてもすこし様子がおかしい。
 太宰さんは、その人のいることなどまるで気にとめていないふうで、誰かが『人間』の四月号に載った「」を絶讃し、感動したと言うと、「」よりも「ヴィヨンの妻」を()めてもらいたいね、「」はどぶろく、「ヴィヨンの妻」はシャンペンだ、きみはどぶろく党かね、あれはすぐ酔うし、それに腹にたまる、そこが気に入ってるんじゃないのかね、シャンペンの味がわからなくては、もっとも俺もシャンペンの味などよくは知らんのだがね、と私たちを笑わせ、それから「かるみ」というものの大事さについて弁じはじめた。
 来客があった。顔見知りの伊馬春部さんがロイド眼鏡をかけた男性を伴ってあらわれた。俳優の巌金四郎(いわおきんしろう)さんだった。

 

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■太宰と伊馬春部 「若松屋」の前にて。

 

  前年の秋に発表された戯曲「春の枯葉」が伊馬さんの手でラジオ向きに脚色されてNHKから放送されることになり、その用事で来られたとのこと。私たちは席を詰め、ふたりの新客は太宰さんの隣りに坐った。太宰さんは私を手招きし、
「奥名さんのところにいいウィスキーがあるんだ。貰ってきてくれない。」
 奥名さん――すなわち、山崎富栄さんである。富栄さんはその頃はまだ奥名修一氏の妻であった。奥名氏の戦死の公報がとどいたのはこの年の七月で、旧姓の山崎に戻るのは秋になってからである。富栄さんは「千草」と道ひとつ隔てた真向いの野川さんという家の二階の六畳間に下宿していた。それまでにも三、四度顔を合わせたことがあり、その下宿の部屋にあがって飲んだこともあった。しかし、太宰さんと富栄さんとの仲について、その時の私はなにも知っていなかった。女の知り合いのひとり、としか思っていなかった。
 富栄さんは自分が持って行くと言う。富栄さんと共に「千草」に戻ると、太宰さんは、伊馬さんの持参した「春の枯葉」のスクリプトに眼を通していた。巌氏がせりふの言い廻しについて質問をし、太宰さんは丁寧にそれを答え、やがて声を出して自分で朗読したりした。たいへんな気の入れようだった。富栄さん持参のウィスキーは、そのあいだに私たちが大半のんでしまったようだ。
 座はいよいよ賑やかになり、やがて太宰さんが、低く呟くように、いかにも投げやりな調子で歌いだした。
  男純情の 愛の星の色 …………
  ()えて夜空にただひとつ
  …………………………
  思い込んだら命がけ 男のこころ
 その最後の、「思い込んだら命がけ 男のこころ」というところを、そこだけを調子を高くして繰り返し、何度も何度も繰り返し、そのたびに、コップをカチンと合わせ、ぐいと飲む。私たちもそれを真似る。

  この「男純情の~」ではじまる歌は、灰田勝彦が歌う(きら)めく星座」。当時の流行歌謡です。

(作品「斜陽」では、この歌詞が、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、となっているが、そのような不思議な文句を太宰さんが歌ったことはない。すくなくとも私は知らない。だいいち、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、では調子が出ないではないか。
 ついでに言えば、「斜陽」で、その場のある紳士が、「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワア、という軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければ、とても駄目だね。いまのわれらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足をひっぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえじゃないか。もしもだね、コンチワアを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ。一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ。」と発言するが、これは、そのままでないにしても、太宰さん自身が喋った言葉である。)  
 富栄さんは台所との間を行き来して、料理やお酒を運んだり、食卓の上をてきぱきと片付けたりした。まるで世話女房のようではないか。妙なひとだな、と私は思った。そのあいだ、れいの和服の女性は、すこし離れたところに坐ったまま、私たちが仲間に入るようにすすめても、さびしげな微笑を返すだけだった。
 その人、太田静子さんは、隣室でうどんを御馳走になったという。「斜陽」にもそのことは書かれているが、そのとき心配してうどんをとってくれたのは富栄さんでした、と静子さんは私に言った。
 後に活字になった富栄さんの日記には、その日、「『斜陽』の御婦人も一緒だった」とある。執筆中の「斜陽」について、太宰さんは富栄さんになんらか話をしていたのだろう。そのモデルで、日記を借覧した女性が訪ねてくる、くらいのことは話していたのかもしれない。しかし、そのひととの仲は伏せていたにちがいないし、まして、そのひとが自分の子をみごもっているとは、打ち明けていたはずはない。
 おそらく、静子さんが隣室でうどんを食べているときだったと思うが、太宰さんはふらりと立ちあがると、なにげなさそうに私のそばに来て、耳もとで、
「きょうは帰らないで、しまいまで付き合ってくれよ。たのむ。」
 とささやいた。
 九時頃、「千草」を出た。連れの男性と二人の編集者はそこから帰った。太宰さん、伊馬さん、巌さん、私、富栄さん、静子さんの六人は、「すみれ」に席を移し、奥の六畳の座敷にあがりこんだ。
 座敷にあがってもうっかりベレー帽をぬぎ忘れた私を太宰さんは見とがめて、
「野原、お前は、そのベレー帽が似合うとでも思ってるのかね。」
 私は慌ててぬいだ。
「あら、野原さん、ベレーがとてもお似合いになるわ。」
 と、隣に坐った富栄さん。
 太宰さんは大袈裟に眉をひそめて、
「お世辞も、度が過ぎるといやみになるね。ベレーなんてのは、女学生のかぶるものです。十五、六の色の白い女学生がちょっとななめにかぶっていると、あれはなかなか可愛いものだが、大の男がねえ、みっともない。」
「そういえば、きみはむかし鳥打帽をかぶっていたことがあったね。四万(しま)温泉に一緒に行ったときもたしかかぶっていた。あまり似合わなかった。」
 と伊馬さん。
「俺は顔が大きくて、それから鼻が大きいからね。帽子をかぶるとポンチ絵になっちまう。しかし、伊馬さんの中折れも、」
 くすっと笑って、
「似合うとは言いがたかった。」
 誰かが”男純情の”と歌い出し、”思い込んだら命がけ”が繰り返され、唱和、コップが音高く打ち合わされ、富栄さんも結構いける口らしく、かなり飲んでいたようで、顔色にも出、へんにうきうきしていて、しきりに私に握手を求めたりし、いきなり、
「『ヴィヨンの妻』のあの奥さん、(しあわ)せだと思うわ。」
 と言った。
「倖せ? ほんとうにそう思いますか。」
 信じられない気持だった。
「ええ、倖せだと思うわ。だって、あの奥さん、大谷をあたたかく包みこんで、甘えさして。」
「それじゃあ、倖せなのは大谷のほうだ。」
「あら、大谷を倖せにできたら、その奥さんも倖せなんじゃないの。」
「あなた、えらいんですね。しかしあんな女房、どこにもいやしないさ。」
「どこかにいます。きっと、どこかにいるわ。」
 富栄さんは声を強めた。
 ひとりおいて右隣りに静子さんが坐り、その横に太宰さんがいた。ふたりを意識しての言葉だったのかもしれない。
 静子さんは、「千草」のときと同じように、無言で眼を伏せていた。重苦しい空気が、そこだけにあった。
「すみれ」を出て、駅まで伊馬さんと巌さんを送った。富栄さんともそこで別れ、太宰さん、静子さん、私、三人は、桜井邸に向った。途中の夜道でも、太宰さんは静子さんにひとことも語りかけなかった。さすがに私も、へんなものを感じはじめてきた。

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■桜井浜江(1908~2007) 1933年(昭和7年)、23歳の頃。女性が画家として生きて行くのが難しかった時代に、その草分け的な活躍をした。

 太宰一行が向かった「桜井邸」とは、三鷹下連雀にあった、洋画家・桜井浜江(1908~2007)の自宅兼アトリエのことです。
 太宰と桜井との関係は、1940年(昭和15年)頃に離婚した夫・秋沢三郎(小説家)が、太宰と同じ東大生だったことからはじまります。1934年(昭和9年)、桜井は、東京都杉並区阿佐ヶ谷に住んでいたため、彼女の家は、太宰や井伏鱒二など、中央線沿線に住む文化人の溜まり場となったそうです。
 1939年(昭和14年)に三鷹市下連雀に転居してからは、太宰は檀一雄、野原などとつるんで、よく桜井のアトリエに転がり込んだそうです。そんな時の桜井の親切な応対ぶりをモデルに、太宰は小説饗応夫人を書いています。

 桜井さんのアトリエに落ち着くと、太宰さんは、いかにも疲れたふうにぐったりと肩を落した。
 前にも来たことがあるらしく、桜井さんは、たしか静子さんとおっしゃいましたわねえ、静子さんだからシーちゃんですわね、さ、どうぞ羽織なんかおぬぎになって、こんなに遅くまで酔っぱらいのお付き合いですか、たいへんですわねえ、いまお茶をもってまいりますから。へんに白々しい空気を素早く察したのだろう、桜井さんはしきりに静子さんに話しかけ、気を引き立てようとし、静子さんも短く受け答えして、すこし気が楽になったようだった。壁にかかっている数枚の壺の絵を眺めていたが、そのなかの赤色が濃い壺に眼をとめ、
「あの壺、メンスになってるみたい。」
 あどけないほどの自然さで、言った。
 桜井さんは、一瞬、目をまるくした。
 出されたお酒を私と飲んでいた太宰さんは、ちらと静子さんの顔を見、おかしさを噛み殺すような表情をした。その眼は、とてもやさしかった。そう、いつくしみがこもっていた、といっていいかもしれない。
 やがて太宰さんは絨毯(じゅうたん)の上に横になり、眠ってしまった。
 翌日は朝から雨だった。静子さんは()れぼったい顔をしていた。窮屈な長椅子に帯だけ解いて横になったせいもあろうが、おそらく一睡もしていなかったのだろう。
 太宰さんは傘を借りて、自分でビールを買いに行った。そして黙りこくってそれを飲んでいた。なにかと話題をさがそうとしていた桜井さんも、いつしか黙りこんだが、
「野原さん、ね、歌をうたおう。さ、うたおうよ。」
「愛染かつら」「宵待草」「ゴンドラの唄」「巴里祭」「巴里の屋根の下」、思いつくままに次次とうたったが、なにせ私はたいへんな音痴だし、桜井さんもけっして美声というわけではなかった。奇妙な合唱になった。
 静子さんは隅の長椅子に坐って、雨がアトリエの大きなガラスにふきつけるのを見ていた。桜井さんが声をかけ、こちらに来て合唱に加わったが、急に声がとぎれた。小さく肩をふるわせて泣いていた。
 夕刻になって、雨が小止みになった。
 太宰さんはキャンパスを借り、立膝(たてひざ)をして、静子さんをモデルに油絵を描いた。唇をまげ、無言で描いていた。

 

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 描きあがった絵を桜井さんが額縁に入れて白い紙で包んだ。太宰さんはそれを静子さんに手渡した。どういうつもりだったのだろうか。
 雨があがり、太宰さんと私は静子さんを三鷹駅まで送った。静子さんは小走りに改札口を抜け、そのまま振り返らずに階段をのぼっていった。

 太宰に、生まれてくる赤ちゃんのことを相談したくて三鷹を訪れた静子。野平に「なんの相談もできなかったのですか。」と問われ、「はい。ぜんぜん。『千草』というんですか、あそこのお座敷に坐って、みなさんが歌をうたったりお話しをなさっているのを黙って見ていたとき、御相談をしたいという気持が、まるで雪が溶けるように消えていきました。もういいのだ、と思いました。」と答えました。
 また、野平の「二度めに行ったお店で、三鷹へ出てきて家でも一軒借りるかね、と呟くようにおっしゃいました。本気でおっしゃったんでしょうか。」の問いに、「さあ。」と答えたそうです。

 最後に、5月24日付で、富栄が書いた日記を引用して紹介します。

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五月二十四日

「先生が、貴女のところにウィスキーがあるっていうんですけど――」
「あらそう、どうぞ」
 六月の御誕生日の御祝にと思ってとってあった品だったけど。夕食を持参してお手伝いにいく。七人のお客様と私。野原さんのお隣で飲む。ウィスキーの甘味な舌ざわり。皆さんに喜ばれて、今宵私の心も酔う。放送劇団の人達。綱さんや、加藤さんのお話――懐かしい。
”すみれ”で二次会。野原さんの楽しいベレー帽から、話は咲いて……、人に喜びを与え得る人はいいなあ、そして、人に悲しみを与え得る人もいい。そして、この二つのどちらかしか、世の中に生きていく強さはないでしょう、と野原さんと握手。そういう御方と一緒でなければ、こうして酒席へなど、私は、はべりませぬ。今夜は私の顔も赤い。真実のことを、ちょっと語ってしまう。
斜陽」の御婦人も一緒だったけど……。
 先生、彼女、野原さん、桜井邸へいかれる。
ヴィヨンの妻”――あの奥さんは幸せだと思うわ、野原さん。
 本当にそう思いますか?
 本当よ!
 本当かなあー、信じられないなあー。
 アラ、本当にそう思うのよ。ああいう奥さんなら、大谷は幸せよ。なんていうか、カヴァーされているというのか……。
 そうなんですよ。うれしいね。幸せなんだ。
 貴女、偉いね。
 偉くなんかないわよ。当り前のことよ。ノスタルジャーがあるというのかしら。
 あれを分かる人というのはいないんだ。
 あら、何処かには、きっといてよ。そう信じて生きなければ余りにも寂しいじゃありませんか、ねえ、そうでしょう。
 さあさあ、飲みましょうよ。
 ――サッちゃん、大いに酔う。

  【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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