記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月12日

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6月12日の太宰治

  1948年(昭和23年)6月12日。
 太宰治 38歳。

 昼過ぎ、大宮の宇治病院を訪れる。

太宰心中前日、大宮を訪問

 1948年(昭和23年)6月12日。
 太宰が玉川上水で、愛人の山崎富栄と心中する前日です。
 太宰は、6月6日、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と妻の津島美知子へ告げて気軽に家を出た後、自宅には帰らず、”仕事部屋”でもある富栄の部屋で生活していました。この行動が、太宰自身の意志に依るものなのか、富栄の希望に依るものだったのかは分かりません。

 6月7日以降、6月13日に遺書を書くまで、富栄は日記を書いていません。
 6月7日以降、太宰を訪問する客もありませんでした。
 本来なら、6月12日、朝日新聞社の学芸部長・末常卓郎(すえつねたくろう)が、朝日新聞に連載予定の小説グッド・バイの原稿を取りに来る約束でしたが、末常に急用が出来てしまったため、使いの者に10回分の校正刷りと「原稿が出来ておれば使の者に渡してほしい」という手紙を持たせましたが、使いは手ぶらで帰って来たといいます。

 太宰と富栄は、6月8日から11日までの4日間、富栄の部屋でどのような生活を送っていたのでしょうか。

 1948年(昭和23年)6月12日、昼過ぎ。
 太宰は1人で、大宮へ向かいました。
 大宮は、太宰が人間失格の「第三の手記 二」以降を執筆するために滞在した町でした。

 大宮を訪れた時の服装は、グレーのズボンに白いワイシャツで下駄履き、という、入水した時と同じ格好。

 太宰は、まず宇治病院を訪ねました。

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 新潮社で太宰の編集担当をしていた野原一夫は、小説『生くることにも心せき』で、この時の様子を次のように書いています。

 六月十二日の昼をすこし過ぎた頃、古田が寄寓(きぐう)していた宇治病院の院長の娘の、古田には(めい)にあたる節子は、奥の離れの縁先で縫物をしていた。人の気配に目をあげると、庭先づたいに、いくぶん前こごみで歩いている太宰の姿が目に入った。グレイのズボンに白いワイシャツで、たしか下駄履きだったと節子の記憶に残っている。とすれば、太宰が玉川上水に入水したときと同じ服装である。
 太宰は毎日注射をしてもらいに宇治病院に通ってきていたし、それに節子は二、三度、下着を届けに小野沢家に行っている。太宰も古田も同じ背格好の長身であり、古田の下着が太宰のからだに合ったのである。顔見知りの節子と目が合うと、太宰は、
「古田さん、いる?」
「いま、信州に行っております。あしたあたり、帰ってくるはずなのですけど」
 太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
「よろしかったら、おあがりになって、お茶でも……」
 太宰は視線を宙に迷わせていたが、
「いや、帰ります。また、来ますよ。古田さんに、くれぐれもよろしく」
 立ち去って行く太宰のうしろ姿がなにかさびしげだったと節子は回想している。 

  「古田さん」とは、筑摩書房の創設者・古田(あきら)のこと。
 古田は、作家が小説を執筆するために最適な環境を提供することが得意で、太宰が人間失格を大宮で執筆できるよう取り計らったのも、古田でした。
 太宰は、古田に何か相談したくて大宮を訪れたようですが、残念ながら古田は、実家の長野に戻っていて不在でした。

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古田(あきら)

 古田が実家の長野に戻っていた理由について、太宰の師・井伏鱒二は回想記太宰治に、次のように書いています。

 筑摩書房主人、古田晁の言。「いま、このままの状態では、太宰さんの健康があぶない。お願いですが、太宰さんを御坂峠(みさかとうげ)頂上の茶店へ、連れて行って下さいませんか。そうして、あんたは、太宰さんがそこに居つくように、一箇月ほど太宰さんといっしょに御坂峠にいて下さい。太宰さんには、一年ほどその山の宿で、静養してもらいたいのです。原稿なんか書かないで、真に静養だけしてもらいたいのです。私は月に三回ずつ、背負えるだけ物資を背負って太宰さんを訪ねます。なるべく早く、来週の終りごろにでも出発して下さい。私は、ちょっと郷里に帰って、今週の終りか来週匆々(そうそう)に帰って来ます。それまでに、出発の都合をつけておいて下さい。いいですか。では、お願いしましたよ。ゲンマン。」
 ただし、古田晁が一週間ばかり郷里へ帰っている間に、太宰治は「不慮(ふりょ)の死」をとげた。

 ここ最近の太宰の様子を、身近な編集者、野原一夫(新潮社編集部員だったが、この年の春に角川書店編集部に入社)や野平健一(新潮社編集部員) から伝え聞いた古田が、なんとかしなければならない、と考えた解決策が、御坂峠(みさかとうげ)天下茶屋への滞在でした。

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■御坂峠の天下茶屋

 この御坂峠(みさかとうげ)天下茶屋は、太宰再起の地です。
 パビナール中毒、最初の妻・小山初代との心中未遂など、乱れた生活を正し、師匠・井伏の仲介で美知子と結婚。作家としての再起を図ったのが、この地。古田は、東京の喧騒から離れ、静かで落ち着きがあり、かつ馴染みもあるこの地で、太宰2度目の復活を考えていたのだと思われます。

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■太宰と井伏 1947年(昭和22年)、荻窪にて。

 この頃、6月はじめの太宰と富栄の様子について、野原は『回想 太宰治で、次のように回想しています。ちなみに、次の回想が、野原が生前の太宰を見た最後でした。

 その日、私が三鷹に着いたのは、夜の八時すぎだった。
 格別の用事があったわけではない。なんとなく、急に太宰さんに会いたくなって、ひとりでに私の足は三鷹に向いていた。

 

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■野原と野平(左から)

 

 見上げると、富栄さんの部屋には電気がついていた。気のせいか、ガラス戸にうつる電気の光が、へんにうす暗く見えた。一瞬迷ったのち、私は「千草」の表戸をあけた。
 私の姿を認めると、おばさんは下駄をつっかけて土間におりてきた。
「先生は、こちら?」
「いえ、先生はね、」
 とおばさんは身をすり寄せ、耳もとでささやくように、
「先生はね。前にいらっしゃいますよ。だけどね、」
 と、さらに声をひそめて、
「特別な人のほかは、もう誰とも会ってないようだよ。いえね、先生が会いたがらないんじゃなくて、山崎さんが合わせないんだよ。こないだもね、どこかの出版社の人が山崎さんに玄関払いをくわされて、なんでも凄い見幕で追い返されたそうで、それからうちにみえてね、もうさんざん山崎さんの悪口を言うの。ヤケ酒だ、ヤケ酒って、あおるようにお酒をのんで、ずいぶん酔ったんだろうね、ふらふらしながらうちを出ていって、それから、山崎さんの部屋の窓にむかって、山崎のバカヤロウ、大きな声でどなるんだよ。私もはらはらしちゃったけどね。」
 なにか、こわいものを見ているような顔付きでおばさんはそう言った。

 

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■「千草」の女将・増田静江

 


 私が会釈して富栄さんの部屋に行こうとすると、
「ちょっと待っててよ。きいてきてあげますから。ま、あなたは特別だから、大丈夫だと思うけど。」
 小走りに走っていったが、すぐ戻ってきて、
「お会いになるそうです。だけど、なんだか、へんな具合だよ。喧嘩でもしたのかしら。」
千草」のおばさんに仲立ちしてもらって太宰さんに会うのは、もちろんこれが初めてであった。私は妙な気がした。
 太宰さんは、お酒を飲んでいなかったような気がする。寝ころんで、文庫本を読んでいた。私を見ると、上半身を起して、目だけで笑った。私は先日の口述筆記のお礼を言った。太宰さんは小さくうなずいて、
「お酒を。」
 と富栄さんに言った。
 富栄さんは部屋の隅でからだを固くしていた。眼が腫れぼったいようだったが、泣いたあとだったのだろうか。
 コップをかち合わせると太宰さんは、
「いま、ミュッセの短篇を読んでいたんだがね、いいもんだ。ミュッセとかメリメ、メリメの短篇もいいんだ。『エトリアルの壺』なんて、絶品だね。フランス文学というと、すぐスタンダールバルザック、フローベルとくるけど、ミュッセ、メリメ、こちらのほうが上質なんだ。あ、それから、ドーデー、これがまたいいものだ。」
 そんなことを、ぽつりぽつりと、大儀そうな口調で言った。
 富栄さんは黙ってそこに坐っていた。太宰さんは、富栄さんの顔を見ないようにしていた。
 この時間、いつもなら、「すみれ」か「千草」で訪客にかこまれての酒盛り、気勢をあげている頃で、いや、太宰さんとふたり差し向いで、この部屋で酒をのんだことも何度かあるが、こんなに湿った、へんに静かな酒は、初めてだった。
 私は、一時間もいなかったと思う。帰ります、と言うと、太宰さんは顔をそむけるようにして、うなずいただけだった。
 私が太宰さんを見た、それが最後だった。

  また、井伏は太宰治の中で、「千草」の女将・増田静江の回想を次のように書いています。

「太宰先生は『グッド・バイ』をお書きになる前に、僕は、こんど書く小説の筋書き通り、今のような自分の生活をすっかり清算して、ほんとの家庭人になるのだと仰有(おっしゃ)っていました。ところが、あの女がそれをきくと急に気が荒くなって、太宰先生をここから一歩も外に出さないようにしました。先生がお宅に帰りたいと仰有(おっしゃ)ると、女が先生を(おど)かしました。何とかいう凄い薬を持っている、それを()んでやると云って、先生を(おど)かすんです。先生のお亡くなりになる六日前から、もう一歩も外に出さなかったのです。先生は、お宅に帰りたくって帰りたくって、たまに階下に降りてらっしゃっても、立ったり坐ったりばかりしていらっしゃいました。先生はいいかたでしたけれど、ほんと怖がりんぼでした。傍から見ていて、じれったいほどで御座いました。」

 この証言が真実だとすると、太宰が大宮を1人で訪れることも、なかなか難しかったのではないかと思われます。使いに出掛けた富栄の目を盗んでの外出だった可能性もあります。

 太宰は、宇治病院の後、その足で人間失格執筆時に滞在していた、小野沢清澄宅にも立ち寄ります。

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 太宰は、小野沢に「グッド・バイがうまく書けなくてね……」と言って立ち去ったそうです。その後ろ姿を見送りながら、驚くほど薄かった太宰の影が、網膜に焼きついて離れない、と小野沢は回想しています。

 人間失格全206枚を脱稿し、大宮を後にしたのは、ちょうど1ヶ月前の、5月12日。この時、太宰は、日頃の無口にも似ず口数が多く、「グッド・バイの続きは、ぜひここで書きたいから、部屋を開けておいて下さいね」と懇切な挨拶をして、三鷹に帰っていったといいます。
 大宮での滞在中に健康的な肉体を取り戻し、笑顔で嬉しそうに大宮を去った1ヶ月後。太宰を取り巻く状況が、ここまで大きく変わるとは、誰も想像していなかったでしょう。

 古田が、郷里の長野から、太宰が御坂峠の天下茶屋に滞在するための物資を背負い、大宮に戻って来たのは、6月14日の午後。留守中に太宰が訪ねてきたと知った古田は、「会えていたら、太宰さんは、死ななかったかも知れん」と、沈痛な面持ちだったといいます。

●大宮滞在中の太宰については、2019年10月19日に、HP「太宰が住んだ大宮」(管理人:玉手洋一さん)主催で開催された「太宰が住んだ大宮探索ツアー2019 秋」の参加ルポを書いています。太宰ゆかりの地について詳しく紹介していますので、ぜひ併せてご覧下さい!

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『山崎富江の生涯』(大光社、1967年)
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
相馬正一『評伝 太宰治 第三部』(筑摩書房、1985年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1986年)
・野原一夫『生くることにも心せき 小説・太宰治』(新潮社、1994年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二太宰治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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