記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月11日

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6月11日の太宰治

  1941年(昭和16年)6月11日。
 太宰治 31歳。

 六月十一日付で、山岸外史(やまぎしがいし)にハガキを送る。

太宰、山岸に再婚のすゝめ

 今日、紹介するのは、1941年(昭和16年)6月11日付で、太宰が親友の山岸外史(やまぎしがいし)(1904~1977)に宛てて書いたハガキです。太宰・山岸・檀一雄(だんかずお)の3人は、「三馬鹿」と呼ばれていました。

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■三馬鹿 左から太宰、山岸、檀。

 太宰は、東京八景の中で、「私たち三人だけが残った。三馬鹿と言われた。けれども()の三人は生涯の友人であった。私には、二人に教えられたものが多く在る」と書いています。

 これから紹介する手紙を太宰が書いた4日前、長女・園子が生まれています。この日の出来事については、6月7日の記事で紹介しています。

  東京府三鷹下連雀一一三より

  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 電報をありがとう存じました。また、ただいまは、厳粛の指示を、いただきました。私としては、まだ、父の実感がありません。大事にしています。園子ときめました。お気の向いた折に、見に来て下さい。人相をカンテイしていただきます。母も子も、元気です。不一。

 太宰が妻・美知子と再婚して2年半後。長女・園子も生まれ、順調に家庭生活を送っていました。太宰は、山岸に、「家庭は、やっぱり大切ですよ。落ちつけますよ」と話したそうです。

 また、「電報をありがとう存じました」とありますが、この「電報」について、山岸は『人間太宰治で次のように書いています。

 たぶん、ぼくが太宰から園ちゃん出産の知らせを受取ったので、祝電でも打ったのだと思う。そのあとで、ぼくが三児をもっている先輩を気どって、手紙でさらになにか子供のことについての参考意見でも書いたのだったと思う。この頃ぼくは書いたように、三児のところに戻っていて、ひとりの老女に食事や洗濯の世話などまかせていたから、その意味では不自由な生活をしていたのである。その癖、一方では(中略)ヤス子との問題があって、いわば中途半端な生活がつづいていた。ヤス子は、ぼくと同棲していたアパートに残っていた。そのヤス子とぼくとの関係について、太宰はよく知っていたから、内々は心配していたのだと思う。「君は女運のいいひとだよ」「腕がいいのじゃないか」などといったこともある。「そんな品のわるいことを言うものじゃない」ぼくがいうと、「あの(ひと)ならば申し分ないのじゃないか。冥利(みょうり)につきますよ。君は」といった。

 「ヤス子」とは、3年ほど前から山岸と交際があった、仙台の教育者・佐藤栄蔵の次女・恭子(やすこ)のこと。恭子は、1906年(明治39年)12月30日生まれ、プロテスタントのミッションスクール宮城学院の英文科を卒業し、同地でインターンの教職を経験したのち、上京して東京都庁に勤務、文京区内でアパート住まいをしている際に、山岸と出会いました。

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 太宰は、6月11日に山岸にハガキを出した6日後、6月17日に、再び山岸に次のハガキを書いています。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 拝復
 お話申し上げたい事もあるのですけど、僕のほうから本郷へ行くのが順序ですけど、まだ四、五日は、家をあけられない気がして、たいへんすみませんけれど、もし、お仕事一段落の折には、三鷹へ遊びがてら、ぶらりとおいで下さいませんでしょうか。     不乙。
 ゆっくりお話したいのですけど。
(今秋、努力して書くつもりの小説の題を、「十字架」「感傷」「審判の秋」「自画像」などいろいろ考えていたところでした。)

  太宰が、山岸に「お話申し上げたい事」とは。
 山岸が太宰の元を訪れた時のことについて、再び『人間太宰治からの引用です。

 ヤス子は太宰には気にいっていたようにも考えられる。安心できる真面目な女だと思っていたのだと思う。誠実な奉仕者のようにみえたかも知れない。そして、ぼくも、いい気なところがあったと書けば書けるのである。しかし、ぼくにはユキ子の追憶ものこっていたし、三児と後妻の関係なども考えて、生返事をしていた。太宰はぼくとヤス子が同棲していた文京区のアパートに泊ったことなどもあって、ヤス子を再婚の相手としては十分だと考えていたようである。太宰は女には厳格な方だったから、そう書いていいのだと思う。ぼくの生活もかなり矛盾していたのだが、(中略)そのヤス子との再婚をしきりにすすめたのである。
 ことによると、お美知さんとそんな話題もでていたのかも知れない。
「君はユキ子さんとは死別だからいいが、ぼくは初代とは、生き別れの再婚なんだからね」
 太宰はその夜、盃をあげながらそんなこともいって、家庭を謳歌(おうか)した。
「やっぱり、君、平凡な家庭生活をもった方が、万事、好都合なものですよ。三人も子供がいたのでは、君だって、旅行ひとつ落ちついてできんだろう」
 太宰はなかなか世帯じみたことまでいって、ぼくを説得しようとした。しかし、ぼくは当時まだ、再婚する気になってはいなかった。平凡な生活という言葉で割りきることもできなかった。ヤス子を情人のままにしておくこともわるくはないと思っていたのである。
「君こそ、あまり世帯じみないでくれないか。世帯者の文学では困りますからネ」
 ぼくはそんなことをいって太宰を揶揄(やゆ) したものだが、この頃の太宰はむしろ「当りまえの生活者」になろうと懸命に努力していたと思う。

 美知子と再婚(前妻・小山初代とは入籍していなかったため、戸籍上は初婚)し、「「当りまえの生活者」になろうと懸命に努力」していた太宰は、親友・山岸の幸せも気になっていたようです。
 再婚をすすめる太宰ですが、「当時まだ、再婚する気になってはいなかった」という山岸。その顛末(てんまつ)については、また改めて紹介します。

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■太宰と長女・園子 1941年(昭和16年)撮影。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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