記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月10日

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6月10日の太宰治

  1947年(昭和22年)6月10日。
 太宰治 37歳。

 山崎富栄、六月十日の日記。

太宰、富栄に「別れよう――」

 まずは、1947年(昭和22年)6月10日付の山崎富栄の日記を引用します。

六月十日

 苦労しています。
 三鷹では生まれてはじめての苦労でした。あの、つらい塚本さんの雰囲気私にはお上手など言えません。よく勤めていられると驚かないで下さい。思い出すと泣けてくるのです。ですから努めて、考えまいとしていますの。三鷹から離れて住みたくないばっかりに、色々のものを棄てました。
 生活の方針も変わってきて、ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません。義理も充分果たしてありますし、教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと。
 貴方を知らないでいたのなら、もう、ずっと昔に、三鷹を離れておりましたものを。貴方の知らない苦しみを味わって。

 「塚本さん」とは、富栄が三鷹で働いていた「ミタカ美容室」を経営する塚本さきのこと。塚本は、富栄の父・山崎晴弘が創立した、お茶の水美容学校の卒業生でした。

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■ミタカ美容室(塚本ビル)

 この日記が書かれた2ヶ月半前の3月27日。太宰と富栄は、初めて出逢いました。しかし、愛人としての生活が表立ってくると、世間の目は決して甘くはありませんでした。

 太宰を富栄に紹介した今野貞子は、富栄が急激に変っていくのを心配していました。
 物資不足の時代だったため、富栄は、美容室を訪れる上客から、代金の代りにウイスキーや煙草、太宰の子供たちのためにチョコレート、チューインガムなどを受け取っていました。今野から富栄の状況を聞いた経営者の塚本は、困惑しました。富栄は、恩師の令嬢であり、間違いがあっては困るためです。
 塚本は、富栄に忠告しますが、それに対する「私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません。義理も充分果たしてありますし、教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと」という言葉。校長の教え子に対して、自分は校長令嬢であるというプライドが働いたのでしょうか。

 そんな状況の中、太宰が富栄に放った一言とは。
 1週間後、同年6月17日付、富栄の日記です。

六月十七日

 一時間半も待ったという御言葉を楽しくきいて席についたのに、
「別れよう――」
 と仰言(おっしゃ)る。
「何故ですか、私に何か気に入らないところがありまして?」
「いや、そうじゃないよ。君のお母さんを見ちゃったんだもの、年寄りって(えり)に白い布をつけてるね、見ちゃったんだもの。僕に、母がないからかも分からないけど、お母さんからとっちゃうんだものな、君を。可哀想だよ」「年寄りって、結局は物質的に豊かであればいいんですよ。私に死に水をとってもらいたいと思っているんでしょう」
「僕も一緒にとるよ。ごめんね、もう放さないよ。いい?」
 優しい御言葉。これほどのことを言って下さる人が、ほかにあるだろうか!

 さらに、約1週間後。6月23日、24日と続く、富栄の日記。

六月二十三日

 ふっと思い出しては、初めから何度でも読み返してみて、また読み返してみる。
 なつかしい思いのしてならない人。修治さん。つらくて、苦しくて、もう息もできないと思うことが幾度でもあるの。肉体が一致したからなんて、そんなんじゃないわ。あなたの持っているノーブルなもの、慈しみ深いものなど、それだけでもない、そうあることが、当然のことのような、何かこう、生まれたときから、二人は、決められてでもいたような、愛人であって、兄である。何か肉親のような濃いものを、身に感じて仕方がないのです。
 もう決して、別れるなどと言って下さいますな。瞬間でも別離のことを考えますと、涙が湧いてくるのですもの。

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■山崎富栄

六月二十四日

 剛ちゃんが失恋して酔ってくれたので、いい人だから仲間に入れてあげようと――。幼い頃を思い起こす。腹巻を落として、体の波が導る。喜びと、悲しみと……。
”好き――””もう行きな”
”私も女の臭いがしないけど、修治さんも男の臭いがしないわね”
”あと二、三年。一緒に死のうね”
”御願い””もう少し頑張って”
”気に入った””御意に叶った”

 太宰の死について、太宰は富栄と別れたがっていたが、富栄は太宰を独占しようとしていた、と、富栄が太宰を殺したという「殺人説」を唱える太宰研究家もいて、今日紹介した富栄の日記を引用して論拠としたりする場合もあるようですが、この程度の言い争いや、心にもないことを言ってしまうなど、そう珍しいことでないようにも思われます。
 あくまで個人的な意見ですが、あえて心にもなく別れ話を口にしながら、自分を慕ってくる富栄を見て心落ち着かせている太宰が、(少なくともこの時期には)見えるような気がします。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・片山英一郎『太宰治情死考 ●――富栄のための れくいえむ』(たいまつ社、1980年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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