記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月24日

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5月24日の太宰治

  1944年(昭和19年)5月24日。
 太宰治 34歳。

 金木町の生家に帰る。

太宰の『津軽』旅行③:金木~深浦

 今日は、5月17日に紹介した、太宰の津軽執筆のための故郷・津軽旅行の様子を紹介する、第3回目です。

 前回は、1944年(昭和19年)5月20日、竜飛の奥谷旅館をあとにして、蟹田の「N君」こと中村貞次郎の家まで戻ったところまでを紹介しました。今回はその続き、5月21日から5月25日までの5日間の行程を追っていきます。

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5月21日

 太宰は、青森中学時代からの友人「N君」こと、蟹田中村貞次郎(なかむらさだじろう)の自宅を昼頃にあとにしました。

(前略)私は定期船でひとり蟹田()ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかえて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなっていた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠(ぼんじゅ)山脈があって、山中には路らしい路も無いような有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回(うかい)して行かなければならぬのである。

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 金木の生家(現在の斜陽館)に着いた太宰は、(あによめ)津島れいに付き添われて仏間へ行き、仏壇にある父母の写真をしばらく眺めたあと、丁寧にお辞儀をしたそうです。

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■太宰の両親 父・津島源右衛門(げんえもん)と母・夕子(たね) 

「いつ東京を?」と(あによめ)は聞いた。
 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思っていますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思っていますから、その折にはよろしくお願いします、というような葉書を嫂に差上げていたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どってしまいました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました」N君の事は、嫂も知っている(はず)だった。
「そう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配していました。陽子や(みっ)ちゃんなどは、とても待って、毎日交代に停車場へ出張していたのですよ。おしまいには、怒って、もう来たって知らない、と言っていた人もありました」

 

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■太宰の長兄・津島文治と妻・れい 祝言の様子については、5月8日の記事で紹介しています。


 陽子というのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちょいちょい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやって来ていたのである。(みっ)ちゃんというのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝いに来ている素直な子である。その二人の(めい)が、からみ合いながら、えへへ、なんておどけた笑い方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
「おかしい格好(かっこう)」と私の服装をすぐに笑った。
「ばか。これが東京のはやりさ」
 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た」と大声で言う。元気な人だったが、でも、さすがに少し弱って来ているようにも見えた。

 

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■太宰の祖母・津島いし 衆議院議員に当選し、東京での滞在が長く、留守がちだった当主・源右衛門に代わり、大家族の一切を取り仕切っていた。気性が激しく、厳しい人だったため、「金木の淀君」と呼ばれていた。


「どうしますか」と嫂は私に向って、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんないるんですけど」
 陽子のお婿(むこ)さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめている様子である。
 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない。
「お差支(さしつか)えなかったら、二階へ行きましょうか」ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。
「どちらだって、かまいませんよ」嫂は笑いながら、「それじゃ、二階へお膳を」と光ちゃんたちに言いつけた。
 私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖(きんぶすま)の一ばんいい日本間で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、
「修治です。はじめて」と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯(うなず)いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言ってもいいかも知れない。

 

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■「金襖の一ばんいい日本間」 2011年、著者撮影。


私は慣れているので平気でお膳について、光ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐って、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったようだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合っている。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何処か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然(がくぜん)とし、緊張した。
(かに)はどうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。

 

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「さあ」蟹というものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。嫂も同じ気持だったのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に」
 今夜は、長兄もお婿さんがいるせいか、機嫌がいいようだ。
 蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まっさきに蟹の甲羅(こうら)をむいた。
 私は、ほっとした。
「失礼ですが、どなたです」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です」と笑いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかしら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は(ひざ)を崩して、光ちゃんに、こんどはビールをお酌させた。
 金木の生家では気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうして原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業(しゅくごう)を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て(した)い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。

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■太宰の生家(現在の斜陽館) 2011年、著者撮影。

 

5月22日


 翌日は、雨でした。

 太宰は、うまく馴染めていない様子でしたが、起きて二階の長兄・文治の応接間を覗きに行きます。

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■主人室 父・源右衛門や長兄・文治が使用していた部屋。2011年、著者撮影。

 長兄はお婿さんに絵を見せていた。金屏風(きんびょうぶ)が二つあって、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいった閑雅な風景が(えが)かれている。私は落款(らっかん)を見た。が、読めなかった。
「誰です」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
「スイアン」
「スイアン」まだわからなかった。
「知らないのか」兄は別に叱りもせず、おだやかにそう言って、「百穂(ひゃくすい)のお父さんです」
「へえ?」百穂のお父さんもやっぱり画家だったという事は聞いて知っていたが、そのお父さんが穂庵(すいあん)という人で、こんないい絵をかくとは知らなかった。私だって、絵はきらいではないし、いや、きらいどころか、かなり(つう)のつもりでいたのだが、穂庵を知らなかったとは、大失態であった。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言ったなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかったのに、間抜けた声で、誰です、は情けない。取返しのつかぬ事になってしまった、と身悶(みもだ)えしたが、兄はそんな私を問題にせず、
「秋田には、偉い人がいます」とお婿さんに向って低く言った。
津軽綾足(あやたり)はどうでしょう」名誉恢復(かいふく)と、それから、お世辞のつもりもあって、私は、おっかなびっくり出しゃばってみた。津軽の画家といえば、まあ、綾足くらいのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持っている綾足の画を見せてもらって、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がいたという事を知った次第なのである。
「あれは、また、べつのもので」と兄は全く気乗りのしないような口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立って屏風の絵を眺めていたのだが、兄が坐ったので、お婿さんもそれと向い合った椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソファに腰をおろした。
「この人などは、まあ、これでほんすじでしょうから」とやはりお婿さんのほうを向いて言った。兄は前から、私にはあまり直接話をしない。
 そう言えば、綾足のぼってりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちそうな不安もある。
「文化の伝統、といいますか」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やっぱり、秋田には、根強いものがあると思います」
津軽は、だめか」何を言っても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑いながらひとりごとを言った。
「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」と兄は、突然、私に向って話しかけた。
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので」と私はしどろもどろになり、
「何か、いい参考書でも無いでしょうか」
「さあ」と兄は笑い、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので」
津軽名所案内といったような極く大衆的な本でも無いでしょうか。まるで、もう、何も知らないのですから」
「無い、無い」と兄は私のずぼらに(あき)れたように苦笑しながら首を振って、それから立ち上がってお婿さんに、
「それじゃあ、私は農会へちょっと行って来ますから、そこらへんにある本でも御覧になって、どうも、きょうはお天気がわるくて」と言って出かけて行った。
「農会も、いま、いそがしいのでしょうね」と私はお婿さんに尋ねた。
「ええ、いま、ちょうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知っている。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかった。

 何だかぎこちない会話でしたが、太宰は長兄に認められたかったのでしょうか。

 長兄・文治は、太宰について語った『肉親が親しめなかった弟の小説』で、以下のように話しています。

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 自分の生家のことをことさら大仰にいうつもりはありませんが一地方でかなり名の知れた私の家から小説家という冠をいただいた極道者が出るということは、本当につらいことでした。
 私はなにも小説家そのものや、文芸それ自体が悪いというのではありません。これでも当時の家長としては、かなりの理解をもっていたつもりです。ところが修治は、その理解をはるかに超えたところで行動し、事件をおこし続けてきたのです。
 高等学校時代の修治は、幼い左翼思想に人なみにかぶれ、茶屋酒の味を覚え、戯作の世界にのめりこんでいったとはいえ、とにかく卒業してくれました。
 私は、不明のいたすところで、そんな修治でも東京へ出たら自分で自己を修正し、真面目に文学なら文学を勉強してくれると考えていました。結果は、みなさんよくご存じのていたらくで、まことに若い家長の手に余る存在でございました。
 修治のことで中畑(慶吉)君に厄介をかけるようになったキッカケは、太宰が相州の小動崎(こゆるぎざき)でおこした、いわゆる”鎌倉事件”です。

 “鎌倉事件”とは、1930年(昭和5年)11月28日に、銀座のカフェ「ホリウッド」の女給・田辺あつみと起こした心中未遂事件のことです。中畑は、文治の命を受け、この事件の後始末をしたのですが、太宰のお目付け役だった中畑は、太宰と文治の関係をどのように見ていたのか、中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。

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 長兄の文治さんは太宰に対してまあ、いうなれば厳格でありました。これはすべて、太宰を”はげます”ための取り扱いでした。その点、長兄が太宰に対して冷たいのではないかと考えている人――特に若い人に誤解のないように特記しておきます。
 少し話が飛んで恐縮ですが、太宰が亡くなってからしばらくというもの、年に百人以上の方が、五所川原の拙宅を訪れ、最近でも三十人以上の方が太宰についての話を聞きたいと言っておいでになります。この頃は学生さんが多く、ときには団体でおいでになることもありますが、その九〇パーセント近くの人が、「長兄の文治さんの太宰に対する仕打ちはひどいではないか、どういう気持だったんでしょうか」という疑問を出されます。文治さんの秘めた愛情に比してみるとき、誠に遺憾であります。
 文治さんは、すべてのことをのみこんでおりました。太宰のことだって、ああもしてやりたい、こうもしてやりたいと思っていたのでしょう。
 しかし、田舎というもの、特に山源という家はそれを表だってやれる立場の家ではなかった……愛情をもっていながら、その愛情を表現できないんです。だから、私に、「何でも、中畑君の気のすむようにやって解決してやってくれ」と常々いわれていたんです。

 不器用な兄弟だったのかもしれません。

 

 

5月23日

 

 雨の日の翌日は上天気で、太宰は、陽子と、そのお婿さんと、アヤ(下男の年長者、用心頭)の4人で、金木町から4キロほど東にある高流(たかながれ)山という、200メートルに満たない程のなだらかな小山に遊びに行きました。この高流山は、津軽平野を一望できる見晴らしがいい場所です。

「や! 富士。いいなあ」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼(まっさお)で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣(ひとえ)の裾を、銀杏(いちょう)の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないじゃないか」私は、あわてたような口調で言った。
「わるくないよ」口をとがらせて言っている。

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津軽富士「岩木山 2018年、著者撮影。

 

 

5月24日

 

 前日の一行に、文治・れい夫婦も加わって、金木町の東南5、6キロにある鹿()子川溜池(こがわためいけ)を散策しました。この溜池は、荘右衛門沢という深い谷間だったものを、谷間の底の鹿の子川をせき止めて作ったものだそうです。

「ここがいい。この辺がいい」と言って池の岬の木蔭(こかげ)に腰をおろした。「アヤ、ちょっと調べてくれ。これは、ウルシの木じゃないだろうな」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱(ゆううつ)でたまらないだろう。ウルシの木ではないと言う。
「じゃあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ」みんなは笑っていたが、私は真面目であった。それも、ウルシの木ではないと言う。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしゃべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山というところへ行って、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまっさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」という唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白浪の騒ぐ磯辺の松原に、とかいう海岸生れの子供の歌をうたうのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であった。そうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝って、(つば)のひろい麦藁帽(むぎわらぼう)に兄が富士登山の時に使った神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋(わらじ)、と言われたのに私だけ不要の(はかま)を着け、長い靴下に編上(あみあげ)の靴をはいて、なよなよと(こび)を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばって、まず袴と靴をぬがせられ、草履、といっても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履という、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがわれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあずけ、とうとう病人用として学校で(やと)って行った荷車に載せられ、家へ帰った時の恰好ったら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑わせていると、
「おうい」と呼ぶ声。兄だ。
「おうい」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走って迎えに行った。やがて、兄は、ピッケルをさげて現われた。私はありったけのビールをみな飲んでしまっていたので、甚だ具合がわるかった。

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■鹿の子川溜池

 

 

5月25日

 

 太宰は、金木を出発して五所川原へ向かいます。午前11時頃、五所川原駅五能線に乗り換え、10分経つか経たないかで到着した、木造駅で下車します。太宰は、「この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。」と言います。

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 この木造は、太宰の父・源右衛門の生家・松木家がある町です。

(前略)父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死歿(しぼつ)頽齢(たいれい)の大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。

 太宰は、水田のところどころに立つポプラ並木を眺め、コモヒの下を歩きながら、父の生家・松木家を目指します。

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■コモヒ 「冬、雪が深く積った時に、家と家との連絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。」小店(こみせ)(なま)ったもののよう。

  コモヒを歩いていると、太宰の目の前に現れたのは、松木薬種問屋でした。

(前略)私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、と大変な勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。

 この「Mさん」は、既に津軽旅行に登場した松尾さんとは別人で、松木薬種問屋・11代目当主の松木修輔です。
 源右衛門の弟・友三郎も、太宰の母代わりだった叔母・キヱと結婚して津島家に入りましたが、後に離婚。五所川原の歯科医・津島季四郎と結婚して五所川原に分家したキヱの娘・リエは、友三郎との間に出来た子でした。

「久し振り。久し振り」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た」
 この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事はない、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。

 太宰は、「何かと私をもてなそうとする」Mさんを、「汗を流して辞去し」、午後一時の深浦行きの汽車に乗り込みました。

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 太宰は、深浦駅から真っ直ぐに一本道を通って円覚寺でお参りした後、郵便局でハガキを買い、三鷹の妻・美知子宛の手紙を書いて、「行きあたりばったりの宿屋」秋田屋旅館に宿泊します。

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円覚寺、仁王門 2018年、著者撮影。


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秋田屋旅館 現在は「ふかうら文学館」として公開されています。2018年、著者撮影。

(前略)汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には(たい)(あわび)の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられている。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。

 

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■当時、秋田屋旅館で出されていた料理 鮑の刺身、鯛の塩焼き、アラ汁、鯛の子とフキ、ネマガリタケの吹き合わせ、鯛のかぶと蒸し、鮑のウロ(はらわた)の塩辛、ミズと鮑の水物。

 

 お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやって来て以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小綺麗な料亭であった。

 

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■「飲ませる家」料亭・二葉 現在は解体されている。

 

 二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
「深浦の名所は何です」
「観音さんへおまいりなさいましたか」
「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。そう」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、
「君、お願いだから下へ行ってくれないか」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中がふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩(ほうばい)の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。(あく)る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、
「あなたは、津島さんでしょう」と言った。

 

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秋田屋旅館の主人・島川貞一

 

「ええ」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので」
「でも、あれは、偽名でもないのです」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の(さかな)にはいいものです」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。

  どうやら、津軽領」では、太宰治より、「津島家」の方が有名だったようです。

 

 太宰の『津軽』旅行④へ続く!

 【了】

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【参考文献】
・『月刊 噂 六月号』(噂発行所、1973年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治検定実行委員会テキスト編集部会 編集『太宰治検定・公式テキスト 旅をしようよ!「津軽」』(NPO法人 おおまち第2集客施設整備推進協議会、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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